京に上洛した幸盛は織田信長の後ろ盾を得ることに成功。三度目の再興運動に舵を切った。
これまでの記事
滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その1】
滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その2】
滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その3】
■第三次尼子再興運動
織田軍の後ろ盾を得ることに成功した幸盛は、信長の家臣であった「明智光秀」の傘下に入る。
1576年から77年にかけて光秀軍や織田信忠軍(信長の嫡子)に従軍し、現在の兵庫県や奈良県周辺を転戦。数々の武功をあげた。
1578年、播磨攻略を任されていた「羽柴秀吉」が毛利方の「上月城」を落とすと、従軍していた幸盛は主君・尼子勝久と共に入城を許される。幸盛を中心とした尼子再興軍はこの上月城を拠点として、三度目の尼子家再興運動を本格化してゆく。
上月城は地理的な特徴上、敵の襲撃を受けやすい城であり、再興軍は毛利軍の容赦ない攻撃を受けることになる。幸盛は持ち前の腕で奮戦するが、秀吉本軍が他城の攻略に手間取る間に毛利軍30,000に上月城を包囲されてしまう。

幸盛が担いだ「尼子勝久」(Wikipediaより)
2~3,000の兵力で籠城する再興軍は秀吉本軍の救援を待ったが、秀吉は他城の攻略を優先する信長の意向に従い救援を断念。結果的に見捨てられ孤立無援となった再興軍は降伏。
降伏の条件として当主・勝久、嫡男豊若丸、勝久の兄弟の氏久、通久は自刃。
■山中幸盛の死
幸盛は人質として毛利輝元の元へ護送されることになった。尼子再興軍の中心的人物として活躍した幸盛が当主・勝久と共に自刃の命を受けず、人質となった理由はわかっていない。
幸盛も勝久らと運命を共にすることはなかった。一説には、上月城を包囲した毛利軍の宿敵「吉川元春」や「小早川隆景」と差し違えるつもりであったなど、様々な見解がなされている。
しかし、護送途中の備中国合(現在の岡山県)で、毛利家の家臣「福間元明」によって誅殺された。享年は34とも39ともいわれる。幸盛の死によって尼子再興運動は潰えた。
【幸盛の武功】
1577年、信長の嫡男・信忠に従った戦では、信長に対して謀反を起こした「松永久秀」の信貴山城を攻め、久秀の家臣「河合将監」を一騎討ちで討ち取る武功を残している。
1578年には上月城に入城した再興軍は宇喜多軍によって攻められるが、幸盛は寡兵で宇喜多ぐんを夜討ち。返り討ちに成功した。
最後の章では幸盛の逸話や、山中家および尼子家のその後をご紹介してゆく
【その5】へ続く
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan