神奈川県民が電話口でこう訊かれた時、塚の字をどう答えるかによって住んでいる地域が大ざっぱに判ることがあったりなかったりします。
「戸塚(とつか)の塚」と答えた場合、その神奈川県は約60%の確率で相模(さがみ)川より東に住んでいる可能性があります。
一方で「平塚(ひらつか)の塚」と答えた場合、その神奈川県は約70%の確率で相模川より西に住んでいるかも知れません。
(※相模川は神奈川県のほぼ中央を縦断し、県土を東西に分ける一級河川です)
ところで、塚と言えばお墓のことですが、平塚の塚って誰のお墓で、どこにあるのでしょうか。
「平塚の塚(緑地)」を発見!
そんな事を考えながら、何げなく地図帳を見ていると「平塚の塚(緑地)」という地名を発見。今回はこの「平塚の塚」について、その由緒を調べてみたので紹介したいと思います。
■眞砂子姫の眠る平塚は「ひらつか」?それとも「たいらづか」?
今は昔の平安時代、桓武天皇の孫娘に当たる眞砂子(まさこ)姫が、京都から東国に下向しました。
新幹線なんてない時代、皇族という身分であれば馬や輿こそ用意されていたであろうものの、何日も続く長旅で、現代人の感覚以上に疲労が溜まったことでしょう。
相模国に入った眞砂子姫は急病を得て、そのまま海辺の村で亡くなってしまったのでした。

在りし日の眞砂子姫(イメージ)。
土地の人々はやんごとなき姫君の死を悼み、里外れにある松の根元に葬り、塚を築いて弔ったそうですが、歳月を経てその塚は風化して平(ひら)たくなり、その故事からこの土地が「ひらつか」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみにこの眞砂子姫、兄の高望(たかもち)王が平(たいら)の姓を与えられている(※以降、平高望と称する)ことから平氏の縁者でもあり、「平氏の姫君を弔う塚」を意味する「たいらづか」を語源とする説もあります。
■石碑の日付に生じた疑問
そして現代、この辺りは「平塚の塚緑地」として整備され、塚は「平塚の碑」として玉垣に囲われた松の木の根元に建っています。

平塚の塚と、大小の石碑(Wikipediaより。撮影:蝉の抜殻氏)
傍らには大小の石碑があり、平塚の塚について由来を紹介しています。
【碑文】桓武天皇孫高見王之女政子下東國天安元年二月二十五日薨因葬墳此塚也これだけ見ると「へー、そうなんだ」で終わりそうですが、ちょっと調べると疑問が生じるので、その辺りも少し掘り下げてみようと思います。
【意訳】桓武天皇の孫で高見王の娘である政子(原文ママ)は東国へ下る途中、天安元857年2月25日に薨去。葬られたのがこの塚である。
眞砂子姫の兄・平高望が上総介(現:千葉県中部の国司)を拝命し、現地に赴任したのが昌泰元898年。一方で、眞砂子姫が東国に下ったのは天安元857年……。
「アンタ(眞砂子)、何しに行ったん?」
兄がまだ上総介に任じられない内から41年もフライング。身内が誰もいない(筈の)東国に、姫君がわざわざ一人で訪ねていく理由とは何でしょうか。
(※現代なら「上京」という分かりやすい理由がありますが、当時は東国と言えば蝦夷と呼ばれた野蛮人の蟠踞する未開の地と思われていましたから、それこそ婦女子はもちろん、男性であっても旅立ちには相応の覚悟が求められたようです)
……まぁ、地元の伝承がちょっと勘違いだったのでしょう(他の元号である可能性も調べてみたのですが、天安と勘違いしそうな元号はどれも時期が大きくズレていて、ちょっと非現実的でした)。
実際のところは(エピソードが史実として)兄・平高望が上総介として東国に赴任し、経営が軌道に乗りそうだったので妹・眞砂子も招いたものの、道中で病死してしまった、と言ったところなのでしょう。
■終わりに
その後、高望は延喜二902年に西海道の国司として大宰府に転勤、そのまま現地で没します(延喜十一911年)が、その息子たちは東国に根を下ろし、坂東平氏の祖として活躍するのでした。
そんな兄や甥っ子、そして子孫たちの活躍を見ることなく相模国に散った眞砂子姫のエピソードは、地元の皆さんに愛されながら今日に伝わっています。
※参考文献:
蘆田伊人 編『新編相模国風土記稿』雄山閣、1998年4月
平塚市 編『平塚市史』平塚市、1985年4月
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