前回までの記事はこちらを御覧下さい。
日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その1】
日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その2】
■真昼九つ(午前11時から午後1時頃)
名所江戸百景 神田紺屋町 画:歌川広重
■江戸の昼飯どき
さてもうすぐお昼です。お昼といえば“お昼ごはん”と考えるのが現代人の考え方だと思いますが、しかし江戸時代の初めまでは日本人は一日二食が普通でした。
ところが明暦三年(1657年)“明暦の大火”により、江戸の町は大災害をこうむり焼け野原となりました。そこでまた建築関係などの多数の職人が江戸に仕事を求めて流入してきました。
建築関係の仕事といえば、まずは肉体労働者です。独身男性や、妻や子を故郷に残して単身江戸にやってきた男性達が爆発的に増えました。一日二食では彼らのお腹は満たされません。
そこで様々な外食産業が台頭していったのです。江戸初期の頃は“棒手振り”や“担い屋台”“屋台見世”などという形態で食べものを売り始め、手軽に食事をすることが出来るということで流行りました。

[鐘淵劇場故] 画:五渡亭国貞 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
その後、井原西鶴の『西鶴置土産』によると浅草金竜山門前の「茶屋」で、簡単に腹を満たせる“緑茶で炊いた茶漬飯”を「奈良茶飯」と名付けたとあり、それが江戸市中に多くの奈良茶屋として広まり、外食産業の発展につながったのです。

江戸名所図会「河崎万年屋 奈良茶飯」作:斎藤月岑、他 画:長谷川雪旦
一方、家の近くで働く物や寺子屋に行った子どもたちは、一度家に帰ってご飯を食べるようになりました。
江戸の人々は「初物」が大好きです。「初物を食べると寿命が七十五日延びる」ともいわれていました。
「初物」の代表格はなんと言っても「鰹」です。一人では買えない「鰹」を長屋のおかみさんたちはお金を出し合って買い、分け合ったそうです。

卯の花月 画:歌川豊国 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
お金が足りないなら出し合って買えばいいじゃない、というサバサバした女性たちの姿も、江戸の魅力だと思います。
■商家賑わう

下村呉服店之図 画;歌川豊之
さてお昼どきともなれば人々が町に繰り出します。
上掲の絵は、現在も創業を続けている「大丸松坂屋百貨店」の元となった「下村呉服店(大丸屋)」の店の前を行き交う人々を描いたものです。“下村”というのは店主・下村彦右衛門の苗字からきています。この人物はまずは「義」を重んずるという人徳者でした。
大丸屋は「現銀(金)正札販売」方式で商いをしていました。「現銀(金)正札販売」とは店先で正札を付けて値段を明らかにした商品を陳列し、客も商人の金額に納得した上でその場で現金のやり取りをするという、今では当たり前の売り買いの方法です。
これはもともと「三井越後屋呉服店」が始めた画期的な商法でしたが、下村彦右衛門は良いものを真似するのに恥はないと、その商法を見習いました。
それ以前は普通呉服店では、得意先の注文を聞き後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的で、支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの掛売りが慣習でした。
江戸の呉服屋はこの「現銀(金)正札販売」方式に転換することで莫大な利益を得て、“江戸名所”と呼ばれるような「呉服大店」が増えていったのです。

東風俗福つくし 呉服 画:楊洲周延
しかし実際のところ、このように呉服屋に上がってまっさらな反物を触って色々と選ぶことが出来るのは、やはり豪商や裕福な武家の娘、そして大奥の女性など、いわゆる“お金持ち”の人達にしか出来ないことでした。
多くの子どもは、絵の中に描かれているお茶を出す小僧さんや、子守をしている女の子のように、まだ子供と呼べるような年齢から働いていたのです。
■奥女中の代参

「江戸名所百人美女」【三縁山増上寺】画:歌川豊国 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
さて、上掲の浮世絵ですが、絵のコマ絵の中とタイトルに「三縁山増上寺」とあります。「増上寺」といえば“徳川家”の菩提寺であり、徳川家康は“自分が臨終後は増上寺で葬儀を行う”よう遺言を残しています。
ところで、将軍の正室である「御台所」の一般公務として、徳川家や幕府関係者の法事、祈祷を目的とした江戸各所の寺社への参拝が年間を通して多くありました。
御年寄、上﨟御年寄、御中臈といった大奥の上級奥女中達は、これに直接のお供として同行したり、「御台所」の都合が着かない場合は「代参」という形で代理役を委任されることがありました。

「江戸名所百人美女」【三縁山増上寺】(部分)画:歌川豊国 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
この絵の女性を見てみると、塵よけとして揚帽子を被っています。赤の中着と「水に槌車」の総柄の表着(打ち掛け)を着ていますが、この柄はもとは水車(の羽根)から発展した“魔を払う”という縁起の良い柄なのです。
この場所にこのような豪華な着物を着て、眉を剃り、お歯黒をしている女性を描いているということは、成人した年配者である大奥の上級女中が「代参」をしている姿を描いたものなのです。
この絵では女性が一人描かれていますが、この女性の付き人や警護のものなどの大人数で代参していましたので、江戸の人々はこの代参に遭遇すると、憧れや好奇心で注目したのでした。
この代参の公務が終わると、その帰りは大奥の女性たちの数少ない江戸城からの外出となるので、芝居を観にいったりと羽を伸ばしていたようです。その行いのなかで起こった大事件があります。それについての詳しい話「江島生島事件」をご興味のある方は是非御覧下さい。
■女湯賑わう

肌競花の勝婦湯 画:歌川国周
さあ、お昼ごはんが終わると湯屋(銭湯)の女湯が賑わいはじめます。主に子育て中の女性などは早めに行ったようです。この頃の湯屋は男女混浴が当たり前だったので、男衆が来て混雑しないうちにという考えもあったのでしょう。

肌競花の勝婦湯 画:歌川国周(部分)
湯屋は大体朝五ツ(現在の午前8時頃)から夜五ツ(同じく午後8時頃)まで営業していました。湯屋が賑わうには少し早い時間のようにも思えますが、仕事を終えた男衆が来ないうちの、きれいな湯屋に入りたいという気持ちもわかります。
また長屋暮らしの人たちなどは、暗くなれば寝る(無駄に火を灯す油を使わない)という生活だったので、これは普通のことだったのです。
ちなみに、湯屋も水代や燃料費がかさむため、湯屋で髪を洗うことは禁止されていました。
■吉原で昼見世始まる

暇な昼見世 作者不明
さて、風呂に入ってきれいに着飾った吉原の遊女たちも、昼見世といって客に顔見世にでます。しかしこの時間帯はいわゆる観光客や暇な武士(参勤交代で江戸に来た武士達は割と暇でした)が多く、ひやかしに遊女の顔を見に来る人が多かったようです。
ですから遊女たちもカルタ遊びをしたり、占いをしたりして過ごしていたようです。しかしお客がつけば、ちゃんと仕事をしました。
次回の(午後13時から午後15時)に続きます。
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