「いざ、上洛(じょうらく)じゃ!」

「「「おおう……っ!」」」

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戦国時代、誰もが天下統一の野心を燃やしたと思われがちだが……。

かつては「戦国時代、多くの大名たちが京都へ上って天下に号令することを目指していた」と考えられてきました。


しかし近年の研究では、別にそんな野心家ばかりではなく、ほとんどの大名は天下を狙うどころか、地元の経営や近隣勢力との小競り合いでいっぱいいっぱいだったと言われています。

さて、そんな大名たちが京都へ上ることを「上洛」と言いますが、京都へ上るのであれば「上京(じょうきょう)」でよさそうなものです。

(※現代では東京へ行くことを上京と言いますが、当時はもちろん東京どころか、江戸の町さえ不確かなものでした)

戦国時代、京都を目指した大名たち…なぜ上京じゃなくて上洛と言うの?


狩野元信?「洛中洛外図」Wikipediaより。

この「洛」が「京都」を意味することは、京都の内外を描いたことで有名な「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)」からも察しがつくものの、どうして京でなく洛なのでしょうか。今回はその辺りを紹介したいと思います。

■長安と洛陽…二つの都を東西に配した平安京

京都が日本の首都となったのは、平安京へ遷都が行われた延暦13年(794年)。歴史の授業では「鳴くよ(7・9・4)ウグイス平安京」と教わった記憶があります。

平安京は古代中国の都であった長安(ちょうあん)や洛陽(らくよう)を模して造られ、天皇陛下の御所(大内裏-だいだいり)から東西南の三方へ碁盤の目のように道が張り巡らされました。

大内裏の中央「朱雀(すざく)門」から真南の果てにある「羅城(らじょう)門」までのびて平安京を東西に分ける「朱雀大路(すざくおおじ)」を境に、その西側を「長安」、東側を「洛陽」と雅称(がしょう。オシャレに呼ぶこと)します。

戦国時代、京都を目指した大名たち…なぜ上京じゃなくて上洛と言うの?


平安京。中央の朱雀大路より西を長安、東を洛陽と雅称した。
Wikipedia(写真:名古屋太郎氏)より。

これは中国大陸でも長安が西側、洛陽が東側にあることに由来するのですが、西側の「長安」は湿地が多く、住まうのに不便だったためか次第に寂れがちとなり、東側の「洛陽」が概ね京都全体を表すようになったそうです。

【まとめ】
かつて平安京の東側を古代中国の都である「洛陽」、西側を同じく「長安」と呼んでいたが、西側が廃れたため、東側の「洛陽」が京都全体を表す雅称となった。

それで京都へ上ることを「上洛」と言うようになったのですが、一つの都の中に二つの都を(名前だけとは言え)配置してしまう壮大なスケールに、かつて王道楽土を夢見て平安京を築き上げた人々の想いが偲ばれますね。

※参考文献:
高橋慎一朗『中世の都市と武士』吉川弘文館、1996年8月
国史大辞典編集委員会『国史大辞典 14 や-わ』吉川弘文館、1993年3月

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