水彩画のような淡いグラデーションの空。
ゆらゆら揺れる海や池の水面。

ふわふわした柔く優しい月光。
そして、ぼうっとした灯りに映し出されるぼんやりとした人の影。

従来の浮世絵に光と影による効果を加えた「光線画」は、江戸の下町に生まれた浮世絵師 小林清親(こばやしきよちか)によって始められた。

最後の浮世絵師「小林清親」は光と影を操る"光線画"の使い手

清親が明治初年の東京の風景を描いた『東京名所図』は、当時それまでになかった西洋画のような写実的な画風が話題となり、明治9(1876)年から5年に亘って刊行された人気シリーズとなる。

■幕府に仕える武士から絵師への転身

火事をスケッチし戻ると自宅が全焼…刀を筆に持ち替えた浮世絵師...の画像はこちら >>


出身地である本所を描いた『本所御蔵橋』(国立国会図書館デジタルコレクション)

そもそも、清親は最初から浮世絵師ではなかった。生まれは江戸本所で、父は年貢米を管理する幕臣だ。
ところが、その父が文久2(1862)年に死去したため、当時15歳だった清親が家督を継ぐこととなる。

時は混乱渦巻く幕末。清親も時代の渦に否応なしに巻き込まれていく。家督を継いだ6年後に戊辰戦争が勃発し、清親は幕府の侍として鳥羽伏見の戦いと上野戦争に参戦した。

この戦争は薩長を主力とした新政府軍の勝利。260年続いた江戸幕府は崩壊し、徳川家は居を江戸から静岡へと移ることとなる。
この時に将軍に同行して共に静岡へ移った旧幕臣が多くいたが、清親もその一人だった。

幕府崩壊により職を失った清親。もともと絵が得意だったようで、静岡にいた頃は暇さえあれば絵を描いてたという。そうして過ごす中で思うことがあったのか、明治7(1874)年に絵師を志して東京へ戻っている。侍として持っていた刀を筆へと持ち替え、絵師としての新しい人生が始まるのだった。

それでは、清親の描いた明治初年の東京を『東京名所図』で見てみよう。


■清親が描く明治初年の東京の風景

火事をスケッチし戻ると自宅が全焼…刀を筆に持ち替えた浮世絵師・小林清親が描いた東京が美しい


『隅田川小春凪』(国立国会図書館デジタルコレクション)

沈みゆく夕日と隅田川を描いた『隅田川小春凪』。空の淡いグラデーションと、夕日が反射してきらきらと光る水面をがなんとも美しい。この絵のように空を大きく描くことで、時間や天気による空模様の変化を繊細に表現するのも光線画の特徴だ。

火事をスケッチし戻ると自宅が全焼…刀を筆に持ち替えた浮世絵師・小林清親が描いた東京が美しい


『天王寺下衣川』(国立国会図書館デジタルコレクション)

川辺を飛び回る蛍のほのかな光が印象的なこちらは『天王寺下衣川』。蛍に目が奪われがちだが、奥に描かれた人物のシルエットも見逃さないでほしい。真っ暗な夜を照らすのは、蛍と建物から漏れる灯りとぼんやりとした提灯。
その僅かな灯りに映し出された緻密なシルエットこそ、清親の光線画の真骨頂なのである。

火事をスケッチし戻ると自宅が全焼…刀を筆に持ち替えた浮世絵師・小林清親が描いた東京が美しい


『両国大火浅草橋』(国立国会図書館デジタルコレクション)

続いて紹介するのは、明治14(1881)年に起きた両国の大火を描いた『両国大火浅草橋』。轟々と燃え上がる真っ赤な炎と青い空のコントラストが不謹慎ながら美しいだけでなく、炎と煙の向こうの建物や舟で対岸から避難しようとしている人々の様子が、光線画の技法により見事に描き出されている。

実はこの火事が起きた当時清親は両国に住んでいた。近所で火事が起きたと聞くと、画材を持って現場付近まで走ってスケッチに行ったそうだ。混乱する現場の中で一心不乱に絵を描く姿はさぞ奇妙であったに違いない。
満足して帰った清親だったが、なんと自宅は火事により全焼。さらに妻が清親に愛想を尽かし出て行ってしまったのだ。

しかし、この大火を描いた作品は何度も重版されるほどの人気を博した。なんという皮肉だろうか…。

【次回に続く】

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