大河ドラマなどで見る限り、戦国時代の主従関係は厳格であったように感じられます。

背景には、各大名家内の法律ともいえる「分国法」の存在があり、これで家臣団を統制していたことがあるからでしょうか。
著名な『今川仮名目録』や、法というより家訓に近い『朝倉孝景条々』など多くの分国法が存在していたとされています。

「分国法」の目的は、家臣と農民の統制。つまり「反乱や一揆を未然に防ぐために、行動を法律で縛った」ということです。しかし中には「自由気ままな家臣、私利私欲に走る家臣を統制しないとお家が分裂する」というような危機感から分国法を作った大名もいたようです。

今回は、自由気ままな家臣に頭を悩ませ作成された分国法『結城氏新法度』についてご紹介します。

■結城家って?

自由気ままな家臣たちに悩んでます。 戦国大名の気苦労がにじみ...の画像はこちら >>


結城政勝

下野国の大名である結城家ですが、実は平安時代から続く名家であったようです。ただ、『結城氏新法度』を作成した16代当主・結城政勝(1503年-1559年)の頃には、北関東の小大名としてなんとか家名を保っている、という状態でした。ちなみに戦国末期、豊臣秀吉の養子であり徳川家康の次男である羽柴秀康が、この家を継ぎ結城秀康となりました。

結城政勝は死の3年前である1556年(弘治2年)に『結城氏新法度』を完成させます。この頃、結城家は勢力拡大に失敗し、政勝自身、体調不良が進行していたようです。こんな状況の中、結城家の将来を思い104条に渡る法度を完成させました。

■『結城氏新法度』はこうして作成された

『結城氏新法度』には、前文として法度の目的がはっきりと記載されています。


(意訳)

縁者からの訴訟が起きると、なんとかそれを正当化させようとする。
これは縁者や配下の者たちから「頼もしい」と思われたいからではないか?
また、死ぬ気などないくせに、刀を突き立てたりしてことを荒立てる。
少ない仲間内でこのような喧嘩をするものではない(他国に侵略されたらどうする?)。これをやめさせるために法度を作った。

実際に喧嘩についての条文が数箇条に渡って存在しており、当時の法度では珍しいとされています。また、訴訟や戦争時の家臣の問題行動をなんとか取り締まろうとしている条文も見受けられます。実際にどのような条文があるのか見ていきましょう。

■~訴訟~ 白を黒にさせようとする家臣たち

*9条 他人の山林で伐採を行ったために討ち取られた家臣のことで弁解するな
*11条 証拠のある盗みについての弁解は、盗人よりも重い罪にする
*19条 他人から頼まれたことを、無理なのに聞き入れたり、証拠がないのに上申するな
*78条 他人に頼まれたからと言って、酒に酔った状態で上申に来るな。素面で来なさい

つまり「家臣や親類を助けるために、明らかに不当な要求をそのまま通してやろう」と、無理なことを言ってくる家臣たちが多かった、ということですね。

■~喧嘩~ 徒党を組んで問題を大きくする家臣たち

*3条 どんな理由があろうとも、徒党を組んだ者の側に処罰をくだす
*4条 喧嘩、口論、訴訟に加担したものは本人だけでなく一族も断絶する
*5条 喧嘩を売られて、自身のみで対応した場合は、自身のみを改易とする
仲間を募った者は、自身だけでなく、一族も改易とする

背景にあるのは「当時、身内や仲間の誰かがトラブルに巻き込まれた場合、加勢するのが美徳とされていた」ということ。このように、個人間で発生したトラブルは、すぐに集団の争いに発展する可能性を持っていました。ですので、
・個人よりも集団の喧嘩の罪が重い
・喧嘩に引き入れた者の罪は重い
・加勢した人は、一族まで類が及ぶ
と規定し、集団の争いが起こらないように腐心していたようですね。
結城政勝は、犯罪が起きれば身内をかばい、訴訟が起きれば贔屓を画策し、仲間を募って紛争激化させる、という家臣団に感情面でも嫌気がさしていたのではないでしょうか。
公平性や自制心をコントロールできない当時の武士たちが、統制する側の大名を苦しめていたようです。

自由気ままな家臣たちに悩んでます。 戦国大名の気苦労がにじみ出ている分国法「結城氏新法度」


江戸時代と違い倫理感が醸成されていない中での統制は難しかった

■~戦時~ 私利私欲に走る家臣たち

一方で、自制心をコントロールできず私欲に走る武士たちを統制するための条項もいくつか存在します。

67条 出陣の法螺貝が鳴った後、相手を確認せずに出撃するのはやめろ
68条 どんな急な事態であったとしても、鎧を着て出撃しろ
69条 命じてもいないのに、偵察に出る必要はない

一見すると、多少そそっかしくはありますが、迅速に動いているように見えます。当時の武士の心構えとしては、及第点のように見えますが実際は違っていたようです。端的に言うと「軍隊に参加せず、どさくさに紛れて略奪行為行う」ことに対しての統制であったようです。当時は、戦地での物資の略奪が容認されていたため、このようなことが起こっていました。

27条にはこうあります。

(意訳)

偵察、夜襲の行為は専属の者が行う。
にも関わらず、家臣が率先して働くふりをして、敵地で女の一人でもさらおうとしてどこかへでかけてしまっている。これが理由で、もし敵に殺されたとしてもその家は改易とする。

倫理観が確立されておらず、自由気ままな家臣たち。

従順なふりをして、私利私欲に走ろうとする家臣たち。
様々な気苦労の中で、大名の領国経営は行われていたようです。

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