■前編のあらすじ

時は幕末、しがない寺侍の養女・村山たかは近江国彦根藩(現:滋賀県彦根市)のお殿様に奉公したり、京都祇園で芸妓になったり、紆余曲折の人生を送ります。

夢破れて我が子(後に元服して多田帯刀-ただ たてわき)を抱え、故郷の彦根に出戻った『たか』は、我が子の成長を見守る一方、彦根城下でくすぶっていた井伊直弼(いい なおすけ)と出逢うのでした。


前回の記事

幕末の女スパイ?尊王攘夷の志士たちを葬り去った井伊直弼の愛人・村山たかの末路【前編】

■井伊直弼の出世を見届け……

「わしは一生、ここで埋もれていくのじゃ……」

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井伊直弼。Wikipediaより。

武家に生まれながら長男ではなく、また養子(≒他家の跡を取る)の縁談にも恵まれずにいた直弼は、自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と命名した邸宅で、17~32歳までの15年間にわたり不遇をかこつていたのでした。

この時期に『たか』は直弼と出逢い、惹かれ合って情交に及んだと言います。

「大丈夫、あなたはきっと立身出世して、大きなお仕事をなされます。私には解ります」

「左様か……その言葉を励みに、せいぜい精進いたそうかのぅ」

『たか』の励ましが効いたのかはともかく、やがて直弼に転機が訪れ、あれよあれよとお鉢が回った嘉永3年(1850年)、井伊直亮(なおあき)の跡を継いで彦根藩主となったのでした。

「この度は家督を継がれまして、誠に祝着至極に存じまする……」

「うむ、これもそなたが励ましてお陰やも知れぬ。これからは大いに腕を奮って参ろうぞ……」

彦根藩政の改革で実績を上げた直弼はやがて幕政にも関与するようになり、ついに安政5年(1858年)、江戸幕府の大老を拝命します。

「将軍様をお助けするため、江戸にゆかねばならぬ。大老の立場上、また畳の暖まる暇もなき激務ゆえ、そなたを連れてはゆけぬが、我が師であり懐刀である長野主膳(ながの しゅぜん。義言)を残すゆえ、共に国元からわしを支えてくれ……」

幕末の女スパイ?尊王攘夷の志士たちを葬り去った井伊直弼の愛人・村山たかの末路【後編】


井伊直弼の懐刀として活躍した長野主膳。Wikipediaより。


「……はい……」

身分違いと解っていながら、やはり別れは辛いもの……彦根に残された『たか』は、長野主膳、そして息子の多田帯刀と共に国元から直弼を支援したそうです。

■井伊直弼の女スパイとして……

で、具体的に『たか』たちがどう直弼を支援したかと言うと、京都近辺で活動していた討幕派を中心とした志士たちの動向を密偵し、集めた情報を逐一直弼の元へ送っていたと言います。

幕末の女スパイ?尊王攘夷の志士たちを葬り去った井伊直弼の愛人・村山たかの末路【後編】


諜報活動に勤しむ加寿江(イメージ)。

女スパイと言うと、いわゆる「女の武器」を駆使して情報を引き出したように(こと創作では)イメージされがちですが、安政5年(1858年)の時点で『たか』は50歳。もちろん熟女好きな志士もいたでしょうが、『たか』の方が体力的にきつそうです。

恐らくは男性よりも警戒されにくい女性らしさを活かして、フランクに近づきながら自然な信頼関係を築き、時間をかけて少しずつ情報を引き出して行ったのではないでしょうか。

「まったく、聞いてくれよ『加寿江(かずえ。変名)』さん……あの野郎がさぁ……」

「はい、はい。尽忠報国のお勤め、誠にご苦労様でございますね……」

かくして集積された情報をもって、直弼は後世に言う「安政の大獄(たいごく)」を敢行。吉田松陰(よしだ しょういん)や橋本佐内(はしもと さない)と言った尊王攘夷の志士たちが次々に処刑されていったのでした。

「これも日本の未来のため……致し方なき処断にございましょう」

幕末の女スパイ?尊王攘夷の志士たちを葬り去った井伊直弼の愛人・村山たかの末路【後編】


暗殺される井伊直弼。「桜田門外之変図」より。


志士たちと同じく、直弼も日本の未来を思い、是とする信念があったのでしょうが、安政7年(1860年)3月3日、怨みを募らせた水戸藩士らに襲撃されて直弼は落命(桜田門外の変)。

これで積年の怒りが収まるはずもなく、その矛先は『たか』たちにも向けられたのでした。

■三条河原で3日3晩……

最大の後ろ盾であった直弼を失い、その残党らは次々と粛清され、悲惨な末路を辿ります。

文久2年(1862年)8月27日……『たか』の盟友(愛人?)であった長野主膳は「安政の大獄」の行き過ぎた処罰の引責で斬首。その首級は打ち捨てられました。享年48歳。

同年11月16日……『たか』の息子・多田帯刀は土佐・長州藩士らの襲撃に遭って首をねじ切られ、その首級は晒しものにされました。享年33歳。

「いたぞ!この女狐め、同志の恨みを思い知れ!」

尊王攘夷の志士たちに捕らわれた『たか』は女性ということで命こそ奪われませんでしたが、髪の毛を丸坊主に剃られた上、冬の三条河原で3日3晩にわたって晒しものにされてしまいます。

幕末の女スパイ?尊王攘夷の志士たちを葬り去った井伊直弼の愛人・村山たかの末路【後編】


三条河原に晒された『たか』。髪を剃られた頭を隠すため布が巻かれ、罪状を記した看板に「かすゑ(かずえ)」とある。右手だけ自由にしてあるのは、せめてもの情けか。
Wikipediaより。

「権力の走狗め、ざまぁ見さらせ!」

息子も愛する者たちも喪い、未来への希望をなくした『たか』は金福寺(こんぷくじ。現:京都府京都市)で出家して妙寿尼(みょうじゅに)と改名。寿はかつての変名「加寿江」からとったのでしょうか。

そして明治9年(1876年)9月30日、満67歳の生涯に幕を下ろした『たか』は、今も円光寺(えんこうじ。金福寺の本寺)に眠っています。

【完】

※参考文献:
安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』新人物往来社、2010年5月
日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年1月
松岡英夫『安政の大獄 井伊直弼と長野主膳』中公新書、2001年3月

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