秀吉の死後も豊臣家に対する忠義は変わらなかったものの、真面目すぎて融通が利かず、周囲と対立。
そこをライバルの徳川家康(とくがわ いえやす)に付け込まれ、関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)で敗死してしまうのでした。
しかし三成の純粋すぎる不器用さを愛する者は多く、最近では単なる敗者としてではなく、天下の義将として再評価されつつあります。
関ヶ原合戦図屏風より、三成本陣の様子。陣幕や幟旗に「大一大万大吉」が染められている。
今回はそんな石田三成の信念を表現するエピソードの一つとして、彼のトレードマーク「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」に込められた意味を紹介したいと思います。
■みんなが一人を、ひとり一人がみんなを大事に
大一大万大吉……何だか呪文か早口言葉みたいですが、その意味を一言にまとめると
「One for All,All for One(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」
1人1人が(チームなど)みんなのために行動し、その1人1人をみんな(チーム全体)で助けるという助け合いの精神を言います。
最近スポーツなどでよく聞かれるスローガンですが、大一大万大吉はその和風バージョンと言ったところでしょうか。

豊原国周「石田三成 市川寿美蔵」より。後世の創作でも、大一大万大吉がトレードマークとして認知されている。
漢字の細かな解釈については諸説ありますが「万人≒みんなが『一』人を『大』切にし、一人一人が『万』人を『大』切にすれば、天下は『大吉』となる」と読むと覚えやすいでしょう。
英語のOne for All,All for Oneとは順番が逆になるものの、鶏が先か卵が先かを論ずるよりも
「誰もがみんなのためを思い、みんなは誰も見捨てない社会こそ理想である」
というニュアンス(三成の信念)を心に留めておくことの方が大切と考えます。
どこまでも大真面目に公平・公正な世の実現を志した三成らしいトレードマークと言えるでしょう。
■三成のオリジナルではなかった?
そんな大一大万大吉ですが、実は三成のオリジナルではなく、平安末期の武士・石田次郎為久(いしだの じろうためひさ)らも使っていたと言われています。
相模国大住郡糟屋荘石田郷(現:神奈川県伊勢原市)に所領があったため石田の名字を称しました。
源頼朝(みなもとの よりとも)公に仕えた三浦(みうら)一族の一人で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の一人・三浦義澄(よしずみ)の従甥(いとこおい)に当たります。

木曾義仲(左下)を討ち取りにかかる石田為久主従(右下)。『平家物語』より。
時は寿永3年(1184年)、粟津の合戦で敵の総大将・木曾義仲(きその よしなか。源義仲)を射倒し、その首級を上げた(実際に上げたのは彼の郎党)武将として有名ですね。
一説には三成の祖先?とも言われていますが、為久が大一大万大吉の旗印を用いていたという伝承ともども、ハッキリしたことは判っていません(そもそも源平合戦の時代に旗印を用いる習慣が普及していたのか?という疑問もあります)。
■終わりに
「みんなが一人のために、ひとり一人がみんなのために」

石田三成。確かに狭量なところもあったろうが、それでも豊臣家に対する忠義と、天下公益に供する志は本物だったはず。Wikipediaより。
奮闘むなしく家康の前に敗れ去ってしまった三成。
どこまでも公正な社会を求め続けた三成の理想は、今なおその価値を失うことなく、現代に生きる私たちもまた求め続けていきたいものです。
※参考文献:
永山久夫『武将メシ 戦国十九武将の”勝負メシ”を忠実に再現』宝島社、2013年3月
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年6月
歴史群像シリーズ『豪壮秀吉軍団―天下に雄飛した精鋭列伝』学研、1992年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan