幕末から明治維新を迎え、開国となり、実に様々な制度や生活習慣が変わった明治時代。今回の記事では、そんな明治時代の乗り物についてご紹介します!
■明治時代初期に登場した「人力車」
明治時代というと、鉄道の開通がまっさきに思い浮かぶかもしれませんが、人々の生活の足となったのは、それ以前に使われていた駕籠(かご)に変わって登場した「人力車」でした。
ちなみに鉄道は一部の都市だけでしたので、徒歩ももちろんあります。
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自動車はまだ出てきませんので、この時代人々が「車」といえばそれは「人力車」を指していました。江戸時代の駕籠よりも速く走れ、小回りもきくため狭い路地でも活躍しました。
なお、値段については現在のタクシーの倍くらいだったそうです。また、人力車には番号が振られており、東京府に登録されていました。人力車を引く人は、法被と黒の股引きを着ることが義務付けられていたため、目印となっていました。
ちなみに、日本にやってきた外国人たちは、正座で乗らなければならない駕籠(かご)はとても乗りにくいものでした。
そんななか、一時期存在したのが、「椅子駕籠」と呼ばれる乗り物でした。

椅子駕籠
神輿に似た形で、男性4人が肩にかついで乗客を乗せました。
■馬車は少しずつ浸透
ちなみに、馬車については、明治時代以前は浸透していなかったようです。その理由としては、仏教の影響があるようです。仏教の影響で肉を食べなくなってから、牛は車や農具を引かせるもの、馬はそのまま騎乗するもの、という認識があったという説もあります。
また、日本の土地は山が多く平地が少ないため、スピードが速い馬を活かしにくく、効率が悪かったという説もあります。

明治時代の馬車
また、当時の江戸は人口密度が高かったため、場所・幅を取ってしまう馬車は事故などの心配もあり、浸透しなかったのではないでしょうか。
明治時代になり、道路の整備が進むにつれ、少しずつ馬車が使われるようになりました。あらゆる西洋の文化と同様に、馬車もお金持ちや地位の高い人々から使うようになりました。
そのあと、6人乗りの乗合馬車が横浜で走り始めました。

3代 歌川広重『東京府下名所尽 京橋従煉瓦石之図』より
いかがでしたか?人力車など、今では観光に使われる乗り物が、庶民の日常生活に使われていたというのも面白いですよね。この記事が、みなさんが少しでも歴史や明治時代に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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