■マイナーな「敗者」北条時行

週刊少年ジャンプで、北条時行(ほうじょう・ときゆき)を主人公とした漫画『逃げ上手の若君』が連載されていますね。連載が始まった時は、「まさか北条時行が主人公とは!」と驚いた歴史ファンも多かったと思います。


それくらい北条時行はマイナーな存在と言えます。実際、日本史は教科書で学んでそれっきりだという人は、名前を聞いても全然ピンと来ないでしょう。それも当然のことで、歴史上に名を残すのは「勝者」と決まっていますが、時行は「敗者」です。

しかし歴史をつぶさに見てみると、時行は、北条家最後の生き残りとしてあの足利尊氏を翻弄したすごい武将であることが分かります。今回はそんな彼の足跡を辿ってみましょう。

■中先代の乱で鎌倉を奪い返す

北条時行は、鎌倉幕府を実質的に運営していた執権・北条氏の嫡流です。


鎌倉時代末期になると、有力御家人たちは北条氏に反抗するようになり、倒幕を企てる後醍醐天皇につくようになりました。この動きを抑え込むことができなかった北条氏は滅ぼされ、鎌倉幕府も滅亡してしまいます。

当時、実質的に北条氏の棟梁であった北条高時(たかとき)は鎌倉で敗死し、その遺児となった時行は、支援者を頼って信濃国に落ち延びて身を隠します。

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北条得宗家滅亡の地・「北条高時の腹切りやぐら」

幕府を滅ぼした後醍醐天皇は「建武の新政」として自ら政治を行うようになり、天皇中心の社会を作ろうと考えます。しかし現実に即さない貴族優先の政治となってしまったため、有力武士はこの新政からも離れていきます。

その雰囲気を見て取った時行は、鎌倉幕府再興の兵を挙げました。
建武2年(1335年)のことで、これに先んじて北条高時の弟・泰家(やすいえ)と公家の西園寺公宗(さいおんじ・きんむね)による陰謀が先にあったのですがこれが失敗に終わり、この陰謀に乗る予定だった時行は、独自に諏訪頼重(すわ・よりしげ)らと共に信濃国で挙兵したのです。

奪還!奪還!また奪還!「逃げ上手」武将・北条時行が見せた鎌倉武人の意地


後醍醐天皇(wikipediaより)

彼は鎌倉幕府の残党や、新政に不満を抱く御家人をどんどん味方につけて、あっという間に鎌倉に攻め入り奪還しています。

これで北条氏再興かと思われたのですが、京都から足利尊氏が討伐軍として派遣されると、わずか20日で鎌倉を追われることになりました。

この戦いは「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれています。鎌倉時代の北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」と呼ぶことから、その間である時行を「中先代」と呼ぶようになったのです。

足利尊氏は、ここで鎌倉を支配したことを機に後醍醐天皇に反旗を翻し、その後京都にまで攻め上り、後に室町幕府を開くことになります。


■みたび奪還、逃走、そして…

さて時行はと言えば、尊氏の討伐を逃れ再び姿を消すのですが、その後の南北朝の内乱では後醍醐天皇に許されて南朝側の将となり、再び挙兵しています。

この時には、鎮守府大将軍である北畠顕家や新田義貞の子・義興と共に足利家長(斯波家長)を破り、2度目となる鎌倉奪還を果たしています。もっとも、これもその後の石津の戦いを通して奪い返されてしまいます。

またしても時行はここで身を隠し、南朝側の武将として各地を転戦しました。そして1352年の武蔵野合戦を経て、みたび鎌倉を奪還するというしぶとさを見せます。

しかし、これが時行最後の「鎌倉奪還」でした。
小手指原の戦いで足利尊氏は鎌倉を奪い返し、京も制圧します。この頃には南朝の勢力も衰退し、幕府の勢力が全国的に及ぶようになっていました。

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足利尊氏(wikipediaより)

それでも時行は逃げのび、再び逃走と潜伏の日々に戻ります。4度目の鎌倉奪還を目指していたと思われますが、もはや味方になる武士もおらず、1353年6月21日には足利側に引き渡され、処刑されています。

この時、年齢は20代半ばだったと考えられ、折しも処刑から2日後の5月22日は、鎌倉幕府の滅亡と父高時の死からちょうど20年目でした。

漫画『逃げ上手の若君』の今後の展開のことを考えながら、時行の足跡をこうして辿るのは感慨深いものがあります。
この、逃走・鎌倉奪還・そしてまた逃走を繰り返した「忘れられた敗将」が北条氏再興を果たしていたら歴史はどうなっていたのでしょうね。

参考資料
・鈴木由美『中先代の乱-北条時行、鎌倉幕府再興の夢』2021年、中公新書

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