皆さんは「元寇(げんこう)」をご存じですか。鎌倉時代中期に、当時のモンゴル帝国と高麗によって行われた日本侵攻です。
『蒙古襲来絵詞前巻』の絵七。文永の役の様子が描かれている(Wikipediaより)
この元寇がなぜ起きたのかと考えると、反対に、「実は元寇は防げた」という結論に至るのです。
しかも元寇に限らず、もしかして当時の鎌倉幕府の権力者たちがもっと教養や先見性を身に付けていれば、鎌倉幕府の崩壊も防ぐことができたのでは…? とすら思います。
今回は、そんなことをテーマに解説していきます。
カミカゼだけではなかった!日本が強大な力を持っていた「元」を「元寇」で退けることができた理由
まず元寇についてですが、当時の「元」、つまりモンゴルにとっては、本来ならわざわざ日本を攻める必要などありませんでした。海の向こうの島国にまで進出するのは、モンゴル帝国にとっても非常にコストパフォーマンスのよくない策だったのです。
その証左もいくつかあります。元寇の前に、モンゴルは一年間、日本に向けて使者を送っていますが、その使者は、モンゴルに戻った後で皇帝フビライに以下のように報告しています。
「日本の人間は荒くれ者ばかりで、土地は痩せて耕作には不向きです。あんな所に兵を送っても割に合いません」
現代の日本人の視点で見れば、「コイツ一体日本の何を見たんだろう?」と思うのですが、時は鎌倉時代でプロレスラーみたいな武士たちが闊歩し、農業技術も今ほど発達していなかった頃なので仕方なかったのかも知れません。
また、そんな日本に対して、モンゴルは別に服従を求めていませんでした。
■フビライを怒らせたのは鎌倉幕府
それではなぜモンゴルは日本を二度も襲ったのでしょうか。それはひとえに、日本側(鎌倉幕府)の対応が不適切だったからです。
モンゴルと戦うこととなる執権は北条時宗(ほうじょう・ときむね)ですが、なぜか当時の鎌倉幕府は、モンゴルから送られてきた国書のニュアンスをを読み取れなかったのです。
時代が時代なので外国語に不慣れなのは仕方ないかも知れません。それでも、使者だって何人も来ているのですから、きちんと話を聞けば普通に対応できたはずです。
しかし北条氏はモンゴルの使者を無視し、「来るなら来い」という態度でした。その対応ぶりに皇帝フビライは激怒し、日本を二度も襲ったのです。

『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十六「弘安の役」(Wikipediaより)
ここで、もしも幕府側の対応ミスがなければ、その後の日本史は大きく変わっていたかも知れません。
もちろん元寇は起きなかったでしょうし、モンゴルと友好関係を結んで貿易が盛んになれば、室町時代に先駆けて貨幣経済が進んでいった可能性があります。そうなると武士は貨幣経済についていけなくなり、鎌倉幕府の崩壊が急激なスピードで進む……そんなシナリオを思い描くことも可能です。
まあ歴史にイフはないと言いますし、そんな想像をしたらきりがないのですが。
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