「みだれ髪」などで知られる与謝野晶子。その歌もさることながら、夫である与謝野鉄幹との結婚などその人生も注目されています。


しかし、そんな与謝野晶子に歌と恋どちらにおいてもライバルがいたのをご存じでしょうか?

その女性の名前は、山川登美子(やまかわとみこ)。今回は、そんな山川登美子という女性に迫ります!

■山川登美子とは?

山川登美子は、明治12年(1879年)から明治42年(1909年)に生きた女性です。現在の福井県小浜市出身の歌人です。

大阪のミッションスクールである梅花女学校を卒業した同年、『新声』に初めて投稿した短歌が入選されます。

以下で詳しくご紹介しますが、親が決めた相手と結婚しますが、悲しいことに夫は結婚後早くにこの世を去ってしまいます。さらに、彼女自身も満29歳という若さで、呼吸器疾患により亡くなってしまいます。

■山川登美子と与謝野晶子との関係

山川登美子は、明治33年(1900年)に東京新詩社に加入し、『明星』に参加します。

与謝野鉄幹と与謝野晶子(旧姓は鳳)に出会い、晶子と歌の才能を競い合うようになります。

二人の違いは作風にも現れ、晶子は華麗かつ自由奔放な歌風を持つ一方で、登美子は清楚で自分を抑えたような歌風を持っていました。また、与謝野鉄幹への恋心を募らせていきます。

しかし、歌のライバルであった晶子もまた鉄幹を慕っていることを知り、親のすすめた縁談を受けることに。

晶子に鉄幹を譲る決心をした彼女は、悲恋の歌を残し、結婚します。


「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」

■与謝野鉄幹から登美子はなんと称されたか?

与謝野鉄幹から、山川登美子は「白百合」と称されました。ちなみに与謝野晶子は「白萩」、晶子の前に結婚していた林瀧野は「白芙蓉」という愛称がありました。

与謝野鉄幹は相当なプレイボーイだったことが知られていますが、師である人物からこんな素敵な愛称をもらえたら嬉しいですよね。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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山川登美子の世界―夭折の歌人

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