2007年に映画化もされた彼らですが、当時、命がけでイギリスへ渡り、研究を行いました。
■長州ファイブとは?
長州ファイブは、江戸時代末期の幕末に、長州藩からイギリスに派遣され、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(英名:University College London、略称:UCL)などに「密留学」した5人の長州藩士のことを指します。
その5人とは、
井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、井上勝。
遠藤謹助(上段左)、井上勝(上段中央)、伊藤博文(上段右)、井上馨(下段左)、山尾庸三(下段右) – Wikipediaより
彼らは日本に帰ったあとに大きな功績を残したため、日本に記念館があるだけでなく、イギリス・UCLの中庭にも記念碑が建てられています。さらに、UCLの校舎内には、長州ファイブについての説明パネルまであるんですよ。
■長州ファイブ派遣の背景
先ほど長州ファイブは「密留学」した、と書きましたが、これには理由がありました。1853年にペリー率いる黒船が来航したことにより、日本は開国を強いられました。開国した後も列強と不平等な条約を結んでいくことになります。
国内での尊王攘夷思想・運動が高まりを見せ、社会派混乱に。また、江戸幕府の海外渡航禁止令があったため、開国はしたものの日本人が海外へ渡航することは1866年までできませんでした。しかし、幕府の許可を得ずに英国へ渡ったのが、長州ファイブ。
長州藩は若者に、海外の最新の知識や技術、文化を学んでもらうことが必要だと考えていたからです。
■長州ファイブとイギリス
長州ファイブが学んだのは、UCLでした。当時、色々な人種の留学生を受け入れたのはUCLだけだったそうです。ここで教鞭をとっていた化学者のアレクサンダー・ウィリアムソンという人物が彼らを迎え入れてくれました。
聴講生として入学した彼らは、いろいろな学問に接し、知識を得ていきます。1864年には、半年の留学を終え、伊藤と井上馨が帰国。これは、列強4か国が長州藩への攻撃を準備しているという情報を得たからでした。
■長州は攘夷から開国へ
帰国した2人は、列強と戦うのはあまりに無謀だと藩に伝えますが、結局1864年に下関戦争が勃発。ここで惨敗してしまった長州藩は、これまでの攘夷から開国へと方向転換を見せます。

長州奇兵隊
■多方面で活躍した長州ファイブ
長州ファイブの面々は、日本に帰ってきたあと、大きな功績を残しています。井上馨は外務大臣として不平等条約の改正に力を尽くしましたし、遠藤謹助は大坂の造幣寮の建設に携わり、山尾庸三は東京大学工学部の前身となる工学寮を創設し、工学の父と呼ばれています。
伊藤博文は言わずと知れた初代内閣総理大臣であり、井上勝は鉄道の父と呼ばれています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan