翌朝、時政のもとに、京で大番役を終えた三浦義澄がやって来て、一通の書状を差し出した。
「法皇様の密旨だ。
佐殿にだ」
時政は信憑性を疑いつつ、頼朝の側近・安達盛長に渡した。盛長は首をかしげ、とりあえず預かった。

……(中略)……

「平家討伐を促す、法皇様の密旨でもあれば」
側近の盛長がはっとし、時政から預かったままになっていた密旨を頼朝に差し出した。
頼朝が密旨を読むと、法皇が助けを求める院宣。
「すぐに戦の支度じゃ!」
頼朝は、義時と政子にしっかりとうなずいた。

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第3回放送「挙兵は慎重に」

時は治承4年(1180年)8月、なかなか平家討伐の兵を挙げる決心がつかずにいた源頼朝(演:大泉洋)。

何せ天下に号令する平清盛(演:松平健)を相手取るのですから、その無謀さにためらってしまうのは当然と言えるでしょう。

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鎌倉の大河ドラマ館にて。安達盛長(演:野添義弘)が差し出した後白河法皇の密旨。

そんな頼朝の背中を押した一通の密旨。差出人は京都で清盛の監視下に置かれていた後白河法皇(演:西田敏行)。

朝廷の大義名分を得たことで、ついに決意した頼朝……果たして、そこにはどんなことが書かれていたのでしょうか。


■後白河法皇が頼朝に発した密旨、その内容は?

残念ながら、後白河法皇が頼朝に対して密旨を発したとする史料はなく、その文面は存否も含め不明です。

なので、大河ドラマ館に展示されている「後白河法皇密旨」は製作スタッフによるオリジナル(創作)となります。

可能性は十分ありえた?後白河法皇が源頼朝に発した平家討伐の密旨【鎌倉殿の13人】


後白河法皇の密旨。上掲写真の拡大。

可早追討清盛入道并一類事
右彼一類非怱緒朝家失神威亡仏法既爲仏神怨敵且爲王法朝敵仍前右兵衛左源頼朝宜令追討彼輩早奉息逆鱗之状依 院宣執達如件
治承四年六月拾九日 前右兵衛督藤原光能奉
謹上 前右兵衛権佐殿

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」撮影使用品「後白河法皇密旨」書写

【意訳】早く平清盛とその一族を追討すべきこと
右の者らは朝廷の権威を失わせ、仏法を滅ぼす怨敵である。よって前右兵衛佐源頼朝にこれを討ち、早く逆鱗(お怒り)を息(安)らげるよう命じる。院宣(院=後白河法皇の仰せ)はこの通りである。
治承4年(1180年)6月19日 前右兵衛督藤原光能(さきのひょうゑのかみ ふじわらの みつよし)が院お言葉を奉り、前右兵衛権佐(さきのうひょうゑ ごんのすけ=頼朝)殿へ謹上する。

……差出人は藤原光能。前(さき。元職)とはいえ同じ右兵衛府(部署)に仕えたことがあり、頼朝の上司筋に当たる人物です(両者の面識は多分ありませんが、こういう筋を非常に重んじるのが官僚らしいですね)。

兵衛督(ひょうゑのかみ)は兵衛府における長官(一等官)で、兵衛佐(ひょうゑのすけ。
次官・二等官)よりも上位になります。

ちなみに頼朝についている権(ごん)とは「かり(仮、定員外)」を意味し、一種の名誉職でした。対して光能は権なしの正規職員です。

で、なぜ上司が部下に対して「謹上」しているかと言えば、それは後白河法皇のお言葉を伝えて(奉って)いるから。

院宣を伝える人選(伝える相手によって、伝え手もきちんと選ぶところ)と言い、こういう形式をきちんと守る辺り、律令時代から令和の現代までずっと変わらない日本のお役所感(そしてある種の安心感)を覚えます。

■終わりに

可能性は十分ありえた?後白河法皇が源頼朝に発した平家討伐の密旨【鎌倉殿の13人】


後白河法皇御影。藤原為信筆

しかし、史料に記述のないところでいきなり「法皇様の密旨が……」と言っても、ちょっとご都合主義すぎる気がしないでもありません(逆にこういう部分は、予備知識のない方が楽しめるかも)。

そんな視聴者たちの指摘を受けたのかどうか、大河ドラマ館の映像で時代考証を担当する坂井孝一(さかい こういち)氏のコメントを拝聴しました。

ちょっとお茶を濁した言い回しではあったものの、頼朝に対して後白河法皇が密旨を発した可能性は十分にあり得るとのこと。

まぁ、史料がない部分については仮説や創作でつながざるを得ないドラマの事情があり、密旨が発せられたかも知れない可能性も含めて検証するのも歴史学者のとるべき態度と言えます。

坂井氏の曰く「最新の学説に基づいている(大意)」とのこと。今後私たちもそうした資料にふれて学び、歴史の知識をアップグレードしていきたいものです。


※参考文献:

  • 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月

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