友松は近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自で、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指していた。
また、本能寺の変で刑死した斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)と親友関係にあり、その遺骸を奪還した逸話で知られる武勇の人でもあった。
今回はそんな海北友松の生涯を3回にわたりお話ししよう。
海北友松と妻の妙貞。(写真:Wikipedia)
■建仁寺方丈に描かれた雲竜図
1599(慶長4)年、京都最古の禅寺といわれる建仁寺の方丈・札の間内に佇む男がいた。男の前には縦2mにも及ぶ巨大な襖に描かれた二面の雲龍図がある。
北面の襖には咆哮とともに雲間から出現する龍。そして、西面の襖には待ち構えるように睨みをきかす龍。それぞれ雲を従えながら、今まさに天に昇ろうとする姿が圧倒的な迫力で描かれている。
男の近くにいた僧が尋ねた。
この龍は天下様(豊臣秀吉)を表しているのでしょうか。
男は答えず、ただじっと龍を見つめ、
これは蛟龍(こうりゅう)だ。
そう呟くと、振り返ることなく札の間を出て行った。
男の名は、海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の雲龍図を描いた本人であり、この時すでに67歳という老齢に達していた。
しかし、広大な建仁寺方丈の5つの部屋に雲龍図のほか、全52面の水墨画障壁を描き切っただけに、とても70歳近い老人には見えなかった。
この雲竜図は、『建仁寺方丈障壁画 雲竜図襖』として今に伝わり、重要文化財に指定されている。

栄西禅師が建立した京都最古の禅寺・建仁寺。(写真:高野晃彰)
■浅井家に殉じた海北家の再興を目指す
海北友松は、1533(天文2)年、北近江の戦国大名浅井家の重臣海北綱親の5男として生まれた。しかし、2歳の時に父が討ち死。それを契機に、京都東福寺で禅僧としての修行に入った。
なぜ友松が幼くして出家したかは不明だ。だが当時、群雄割拠の地・近江の一大名にすぎなかった浅井家においては、いつ綱親と同様な死を迎えることになっても不思議ではない。近江から離れることで、いざという時の血脈を残すためということもあったのだろう。

巨大な伽藍が特徴の東福寺。新緑や紅葉の名所としても知られる。(写真:高野晃彰)
いずれにせよ、この期間に画家としての友松の基礎が完成したことは間違いない。諸説あるものの、この間に狩野元信・永徳らに画を学んだといわれている。
また、友松自身に海北家に変事が起きた際に自分がその跡を継ぐという意識があったのか、あるいは武門の血がそうさせたのかは定かではないが、弓・太刀・槍の修行も怠らなかったという。
つまり、東福寺時代の友松は僧籍の画人と武士という二面性を有していたことになる。
そして、1573(天正元)年、浅井氏は織田信長により滅亡した。この時友松の兄たちもみな討ち死にし、海北家は断絶した。この機を境に、友松は海北家の再興を目指すこととなる。
友松が還俗したのか、僧籍のままでいたのかは判明していない。しかし、この時期、友松の画の師とされる狩野永徳は絶頂の時にあった。おそらくは友松も狩野派の絵師の一人として永徳とともに仕事をしていたのであろう。
それは、1590(天正18)年、永徳が48歳で急逝するまで続いたと考えるのが自然だ。

狩野永徳が描いた唐獅子図。(写真:Wikipedia)
【その1】はここまで。【その2】では、友松が海北家の再興を目指す中で巡り合った斎藤利三を始めとする人々についてお話ししましょう。
【その2】はこちらから
<参考文献>
葉室麟著 『墨龍賦』(PHP研究所/PHP文芸文庫)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan