かつての日本の政権では、重要な官職を得るためには位階とそれなりの家柄が必要でした。

戦国時代の武将たちは、単に戦で武功をあげることのみならず、高い位階と官職を得ることに執心していたようです。


その一例としてよく知られているのが、徳川家康の源氏改姓問題です。

徳川家康の源氏姓改称問題。新興勢力なだけに、認められるのに苦...の画像はこちら >>


徳川家康(狩野探幽画 大阪城天守閣蔵)wikipediaより

1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していました。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請しました。

ところが、正親町天皇は「先例にないため公家には出来ない」とのことからこれを拒否。そこで、家康は浄土宗の僧侶を通じて関白の近衛前久から協力を仰ぐことにしました。

すると、当時近藤家に仕え、神祇官でもあった吉田兼右が万里小路家で旧記から源氏の新田氏系の得川(とくがわ)氏の流れで藤原の姓になったという先例をみつけだし、懐紙に写し取りました。


それを前久が清書し、朝廷に提出したことにより、ようやく勅許が下りたそうです。

もともと家康の祖先は三河の土豪の生まれで、祖先の出自についてははっきりしたことはわかっていませんでした。

すでに三河国の在地領主のとして三河一国平定を進めていた家康としては、隣国の今川・武田といった清和源氏の流れを汲む諸勢力と対抗し、三河国内にある吉良などの名族を支配下に収めていくためには、従前の土豪の出自のままでは限界があったため、自らの立場を正当化してくれる政治的権威が必要でした。

貴族の身分に連なる従五位下の位階と三河国の主の証でもある三河守はなんともしてでも必要でした。

これらの爵位を得るためには松平の名前では先例のないことから、清和源氏の一族新田の末流で或る徳川(得川)義季に系譜上のつながりを求めて、これを申し立てて徳川と家名を改めることになったのです。

土地の実効支配の根拠を朝廷の位階と官位に権利を求めるということは家康だけでなく当時は多くの戦国大名が行っていたようで、当時の新興勢力であった武士達の苦労がうかがえます。


参考

笠谷 和比古 1997「徳川家康の源氏改姓問題」『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』16

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