現在の山形県で起きた「最上騒動」について探ります。戦国武将として名を馳せた最上義光(もがみ・よしあき)とその一族によるトラブルで、幕府が仲裁に入ったにも関わらず終息せず、結局お取り潰しになってしまったという話です。
細かく見ていくと、最上騒動は一つの事件ではなく、山形藩で起こった長年の情勢のことを指します。
もともと、山形藩の初代藩主である義光の時代から、最上氏は内部抗争が絶えない一族でした。
義光がまとめていた間は伊達氏などと互角に戦える力を持っていましたが、彼の死後、一族はだんだん力を弱めていきます。
とてもカッコいい最上義光騎馬像
最上一族はかつては豊臣秀吉の配下でしたが、豊臣秀次が切腹させられた「秀次事件」がきっかけで、次第に徳川家康の方に傾倒していきました。最上義光の娘である駒姫は秀次の側室だったのですが、側室として上洛して間もなく、秀次事件に巻き込まれて処刑されたのです。
駒姫は東国一の美女と言われるほどの美人だったといます。関ヶ原の戦いでは、義光は上杉方の直江兼続を討ち取って57万石の領地を与えられました。
これが山形藩の始まりだったのですが、義光の後継者問題でさっそく暗雲が立ち込めます。
■長男を殺害
最上義光は商業の振興を重視し、山形城の築城や城下町の整備などに力を入れました。治水を重視したり、職人町という町を作って各ジャンルの職人を職種ごとに分けるという効率化を図ったりしています。

山形城。桜の季節には美しくライトアップされる
そのためか、現在の山形市には「銅町」「鉄砲町」などの地名が今も残っています。
そんな山形藩ですが、最上一族の最盛期はここまでで、跡継ぎ問題が発生します。
本来なら嫡子(長男)である義康が継ぐはずでしたが、義光は次男の家親に家督を継がせようとします。家親は徳川家康に気に入られているから、というのが理由でした。
これが原因で親子間の対立が勃発し、ついに義光は義康を殺害します。
実はこの殺害は、義光と義康それぞれに仕えていた家臣が、最上氏を転覆させるために仕向けたものでした。その後、企みがばれたため主犯の家臣一族は処刑されています。
こうして結局、2代目藩主は次男である家親が継いだのですが、その後も「最上騒動」は終わりませんでした。
■2代目の不審死、3代目で改易
さて、2代目藩主となった家親ですが、36歳という若さで病死しました。彼は猿楽を見ている最中に苦しみ出して死んだことから、義康派の残党による毒殺ではないかと言われています。
藩主が亡くなったことで、3代目として家親の嫡子である義俊が後を継ぎますが、彼はまだ13歳という若さでした。よって家中を治められず、抗争は続いていきます。
さすがに見かねた幕府が、騒動に介入して和解案などを提示しますが、それでも騒ぎは収まりませんでした。
13歳で藩主にまつり上げられたあげく、周囲の抗争のせいで改易処分となってしまった最上義俊は、1万石で近江に移されて病死しました。
こうして、最初は57万石あった山形藩は、どこをどう間違えたのか、たちまち衰退していきました。

最上義光の銅像と山形の美しい雪景色
戦国時代から江戸時代への過渡期は、こういうお家騒動や、領主による統治の失敗など、「統治」に慣れない領主によるトラブルがたくさんあったようです。
戦国武将としては有能でも、統治者としてはあまり才能がない人が多かったのもあるでしょうが、こうした統治システムの前例がなかったことも原因でしょう。
跡継ぎに関するルールなどがもっとしっかりしていれば、最上騒動は起きなかったかも知れません。
ちなみに山形藩はその後、地域ごとにバラバラにされて、複数の大名による分割統治のような形になりました。このうち、酒井忠勝とその弟によって統治された地域では圧制が敷かれたり、お家騒動が勃発したりして、かの松平信綱を呆れさせたりしています。
こうしたトラブルを経て、「泰平の世」は作られていったんですね。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan