徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍がおよそ7万騎、対する石田三成(いしだ みつなり)は西軍約8万騎を率いて対峙します(諸説あり)。
兵数や地形こそ西軍が有利ながら、大軍を擁していた小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りによって形成は一気に逆転。戦の趨勢が決した……というのが通説です。
筆者も永らくそう思っていたのですが、どうやら実際はそうではないとか。
一体どういう事なのでしょうか。もし関ヶ原の勝因が小早川の裏切りでないとしたら、何が決定打になったのか?さっそく調べてみましょう。
■実は小早川秀秋の大軍を食い止めていた大谷吉継
盲目ながら巧みな用兵で小早川勢を迎え撃った大谷吉継(義隆)。「関ヶ原合戦図屏風」より
関ヶ原の合戦において、小早川秀秋は確かに西軍屈指の大軍(約15,000)を擁していました。これが東軍へ寝返り、西軍へ攻めかかる行く手には大谷吉継(おおたに よしつぐ)が陣取っています。
小早川15,000に対して大谷勢はわずかに1,500~2,000ばかり。10倍近い兵力差でもみ潰せるかと思いきや、吉継は意外に粘りました。
実は小早川の裏切りを予測して、そっちの方向に土塁や空堀を設けておいたのが現地調査で発見されたと言います。
病いでほとんど目も見えない中、巧みな用兵と即席ので小早川勢を翻弄する吉継。しかしここで誤算がありました。
小早川の裏切りに乗じて、西軍の仲間であった脇坂安治(わきざか やすはる)・朽木元綱(くつき もとつな)・小川祐忠(おがわ すけただ)・赤座直保(あかざ なおやす)らが一斉に裏切ったのです。
それぞれ数百から千数百ほどと比較的小勢ですが、束になってかかれば大谷勢にとっては大きな脅威。
さすがにそっちの裏切りまでは手が回らず、奮戦虚しく攻め滅ぼされてしまった吉継。後は通説どおりに展開したと言います。
もし裏切ったのが小早川秀秋だけだったら、関ヶ原の結果も違っていたのに……そういう意味では、ギリギリの勝利であったと言えるでしょう。
■東軍への貢献ではなく、西軍への裏切りに過ぎない

関ヶ原で活躍した勇士らを賞賛する家康。月岡芳年「関ヶ原勇士軍賞之図」
さて、関ヶ原で東軍に勝利をもたらした「功労者」たち。当然手厚い恩賞にあずかれるかと思ったら大間違いでした。
脇坂安治……所領据え置き(増減なし)
朽木元綱……所領削減(約2万石⇒1万石)
小川祐忠……改易(所領没収)
赤座直保……改易(所領没収)
「「「「これは一体どういう事だ!?」」」」
東軍の勝利に貢献したにもかかわらず、所領は増えないどころか没収される始末。納得行かない気持ちも解ります。
「そなたらは東軍に貢献したのではなく、西軍を裏切ったに過ぎない(意訳)」
との事で、開戦前から内通を確約していた脇坂・朽木については所領据え置き(朽木の削減分は蔵入地=あくまで幕府から預かっていた所領のみ)。
一方で合戦が始まってからどっちにつくか迷っていた小川・赤座の両名については「今後、徳川が不利になったら裏切るに決まっている」ということで評価しないこととされたのです。
天下分け目の合戦が終わった今、求められているのは忠義をまっとうする者。状況次第で容易に裏切るような者は必要ありません。
悔やんだところで後の祭り。冷遇された4名は、それぞれの末路をたどったのでした。ちなみに、小早川秀秋が大谷吉継の怨霊に悩まされ、ついに狂死したことは有名ですね。
■終わりに

大谷吉継の怨霊に怯える小早川秀秋。月岡芳年「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」
以上、関ヶ原における裏切り者たちの末路を紹介してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、彼らの葛藤と決断がどのように描かれるのか、またそれぞれの末路がどのようにアレンジされるのでしょうか。
他の大名たちともども、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』宮帯出版社、2014年10月
- 二木謙一『関ケ原合戦 戦国のいちばん長い日』中央公論社、1982年2月
- 本郷和人『徳川家康という人』河出書房新社、2022年10月
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