そこで、今回はお市の方と柴田勝家が結婚した経緯や夫婦仲について紹介します。
お市の方/Wikipediaより
■きっかけは秀吉

羽柴秀吉/Wikipediaより
お市の方と勝家の結婚したきっかけは羽柴秀吉にありました。経緯として、天正10年(1582)の山崎の戦い後に開かれた清須会議で、秀吉は織田信長の孫・三法師を擁立したことで、秀吉の権限が強くなりました。
そこで不満を表した勝家を抑える目的で、秀吉自らが2人の仲介として動いたといわれています。また、「自らは織田家を乗っ取るつもりはない」との意思表示のために勝家にお市の方を嫁がせたとの指摘もあります。
要するに、共通の敵だった秀吉を打倒するために結婚したのではなく、勝家を黙らせるために秀吉自らが結婚させました。
また、従来の説では信長の三男・織田信孝の仲介だったといわれていました。しかし、現在では上記の説が有力視されています。
■意外!?勝家の初婚相手はお市の方だった

柴田勝家/Wikipediaより
意外なことに勝家は、お市の方との結婚が初婚でした。そのため、約60歳まで独身だったということになります。このように指摘されているのは、勝家がお市の方と結婚するまで誰かと結婚したことが記載された史料がないからです。
ルイス・フロイスの書簡では「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」との評価があることから、結婚願望がなかったのかもしれません。
■2人の夫婦仲

柴田勝家とお市の方/Wikipediaより
実際のところ、2人の夫婦仲はどうだったのでしょうか?
2人は24歳の歳の差婚ではありましたが、仲睦まじい夫婦だったそうです。勝家はお市の方を好意に思っていたこともあり、お市の方だけでなく、浅井三姉妹も大事に扱いました。
また、2人の結婚期間は1年に満たない時でした。そのため、2人の間には子がいません。それも相まって勝家は三姉妹を実の子のように接したのではないかと考えられます。
北ノ庄城で自害する際、勝家はお市の方の辞世の句に応じる形で辞世の句を残しました。その辞世の句はこちらになります。
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな意味としては、お市の方の辞世の句は「ほととじすが誘うから別れをしないといけないこと」、勝家の辞世の句が「儚い生涯であったが、自らの名を後世に語り継がれるよう、雲の上まで運んでほしいこと」との意味で辞世の句を残しました。
-お市の方の辞世の句
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ やまほととぎす
-柴田勝家の辞世の句
引用:Wikipedia
このように、2人ともほととぎすに思いを乗せていること、勝家の辞世の句がお市の方の辞世の句に応えるように詠まれたことから、2人の仲は悪くなかったと考えられます。
■最後に
歳の差婚を経て、生涯を終えた柴田勝家とお市の方。勝家にとって、好意を持っていた相手と結婚できたことは、それが秀吉の作戦だったとしても至上の喜びだったに違いありません。
また、お市の方も無骨ながら愛を注いでくれた勝家と共に添い遂げられたことは、秀吉に一矢報いることができたとひそかに思っていたのかもしれませんね。
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