前編では、土佐出身の戦国武将「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」が、死をも恐れず戦う半農半兵(武装農民)「一領具足」を起用し、土佐の覇者になるまでの話をみていきました。


これぞ戦国時代!信長、秀吉らの思惑に翻弄された四国の覇者・長宗我部元親の人生【前編】
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後編では、好機が訪れたとして四国統一に動いた長曾我部元親の顛末ついて紹介します。


四国の覇者のあっけない最後……信長、秀吉らの思惑に翻弄された戦国武将・長宗我部元親の人生【後編】


長曾我部元親(Wikipediaより)

信長の死と好機

長曾我部元親は、織田信長から四国統一の許可を出され、邁進していました。しかし、四国統一が目前に迫ったとき、許可を出した張本人・織田信長から邪魔をされてしまいます。これには、長曾我部元親も大激怒。

一方の織田信長は、中国地方を支配する「毛利元就」への対抗戦力として海賊と四国地方の両方を獲得する準備を着々と進めていました。

そのため、もはや2人の対戦は免れないという空気になっていた1582年6月、京都で「本能寺の変」が起こり、織田信長が急死。

四国の覇者のあっけない最後……信長、秀吉らの思惑に翻弄された戦国武将・長宗我部元親の人生【後編】


負け戦になる可能性も高かった状況のなか、長宗我部元親は命拾いをすることになります。

そして、この死を好機と捉えた長宗我部元親は、このタイミングで四国統一に王手をかけようと乗り出したのです。

激突!四国の覇者を決める戦い

1582年8月28日、長曾我部元親が阿波(現・徳島県)への侵攻を開始し、阿波の支配者である三好氏の総帥「十河存保(そごう まさやす)」が応戦したことで開戦となりました。これが、四国の覇者を決める戦い「中富川の戦い」です。

長宗我部元親の軍勢が約2万3000人に対し、十河存保の勢力は約5000人。最初は撃退に成功していた十河軍でしたが、一領具足を巧みに扱う長曾我部元親とその軍勢の兵力差を覆すことはできませんでした。

この戦いで主要な戦力の殆どを失った十河存保は「勝瑞城(しょうずいじょう)」に籠城しましたが、2週間後には降伏。
勝瑞城の明け渡しを条件に免罪され、讃岐(現・香川県)に逃げ延びています。こうして四国の覇者を決める戦いは終結したのでした。

長宗我部元親は、この時に逃した十河存保が自身の破滅を招くことになるとは思ってもいなかったことでしょう。



四国の覇者のあっけない最後

長曾我部元親は阿波の平定後、讃岐へ逃げ延びた十河存保の残党勢力を制圧しました。讃岐へ逃げていた十河存保でしたが、これ以上の逃げ場を失ってしまい、羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ泣きつき救援を懇願。そして羽柴秀吉が、14万もの兵を引き連れて四国を奪いにきたのでした。

四国の覇者のあっけない最後……信長、秀吉らの思惑に翻弄された戦国武将・長宗我部元親の人生【後編】


豊臣秀吉像(Wikipediaより)

四国を統一した覇者といえど、天下を支配した羽柴秀吉の勢力に敵うはずもなく、瞬く間に蹂躙されてしまいます。こうして、四国の覇者「長曾我部元親」の物語は幕を下ろしたのです。

ちなみに十河存保はその後、かつて所有していた領地「讃岐十河3万石」を秀吉より与えられました。大名として復帰しましたが、阿波の所領権は認められていません。さらに、翌年の1856年に羽柴秀吉の九州征伐で無謀な作戦に任命され、戦死しています。

四国をめぐって争った長曾我部元親と十河存保は、どちらも羽柴秀吉の手によって消されてしまいました。


しかし、日本列島と分離された四国という後進地で活躍した長曾我部元親の実力は確かなものであり、彼が本土で活躍していれば日本統一を成し遂げていたかもしれません。

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