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無類の男色嗜好。徳川3代将軍・徳川家光の性癖と寵愛されて出世した2人の重臣【前編】
堀田正盛(ほった まさもり)
1609年生まれ。家光の乳母である春日局は義理の祖母にあたる。1623年に家光が徳川3代将軍に就任すると、15歳で小姓に取り立てられた。ここから正盛は異例のスピード出世を遂げていく。
18歳の年には一万石の領地を得て譜代大名に列し、25歳の若さで若年寄(老中に次ぐ重職)に抜擢されると二万五千石を得た。
1635年。27歳で老中就任。武蔵川越藩主として三万五千石を治めると、30歳の頃には信濃松本藩に転封され10万石持ちとなる。42年には再度転封となり下総佐倉藩11万石の藩主となった。
正盛の出世ペースは異例であり、男色家である家光の意向が大きく働いた事による昇進であったと考えられている。
1651年。家光の死を受けて、後を追う形で殉死。享年44。
当時の武家社会では、男色により出世を成した者は主君の死に殉ずるという暗黙の掟が存在した。正盛は不文律を守り、忠義を貫く形で自刃した。
酒井重澄(さかい しげずみ)
堀田正盛と共に、家光の寵愛を受け立身した人物として知られる。
正盛同様に家光と男色関係にあったとされる。若くして下総国生実に2万5000石を与えられた。
しかし、ある時期から病と称して屋敷に籠り療養中に4人の子をもうける。その事実が家光の逆鱗に触れたことで改易され、福山藩にお預けの身となる。
1642年。自ら食を断って自殺。享年36。己の境遇を恥じたことが理由とされている。静養と称して職務を放棄した理由は明らかになっていない。
その後
堀田家、酒井家共に子孫は徳川幕臣として存続した。
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