■「身分制度によって硬直化していた」は本当か?

江戸幕府が崩壊した原因としてよく挙げられるのが、「幕府は古い身分制度から脱却できなかったから」というものです。

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現在の江戸城跡

実際、徳川幕府で上位ポストに就けるのは譜代大名だけで、旗本は町奉行より上に行くことができませんでした。


身分が高い家柄であれば、能力が低くても出世が保証されていました。このため幕府は徐々に弱体化し、幕末においてその機能不全が露呈していったと言えるでしょう。

一方で、薩長などの雄藩は有能藩士を幹部候補として育成し、優秀な人材が藩政を動かすようになっていました。このことから、身分制への対応が組織力の違いを生んだと思われても無理はありません。

江戸幕府が身分制によって硬直した組織だったことは事実です。しかし一方で、実は重要政策を担うポジションについては、江戸時代の半ば頃から個人の能力を重んじる実力主義の考え方があったのも確かです。


一般に思われているほど、幕府の身分制は硬直化していたわけではなく、柔軟な人材育成が行われていました。



■実力本位のポジション・「旗本」

こうした実力本位のポジションとしては、まず旗本が挙げられます。

幕政の意思決定機関は老中や若年寄が中心でしたが、幕政の立案・実施を担っていたのは、奉行所などで働く旗本たちでした。

こうした実務官僚には専門性や行動力が求められることから、実力が重視される傾向が強かったのです。

中でも江戸町奉行は、現在の警視総監・最高裁判所長官・東京都知事などにあたる役目だったため、並の旗本では務まらない役職でした。

下級武士でも積極的に抜擢!意外と柔軟だった江戸幕府の身分制度は、明治の教育制度にも影響を与えていた


現在の南町奉行所跡

では、江戸町奉行にはどのような旗本が就いたのかというと、多くの場合、目付や勘定奉行を経ることが多かったようです。


目付は他奉行の監視役であり、勘定奉行は財政を担当する勘定所のトップです。どちらも実力が重んじられ、その構成員も優秀な者が求められる傾向がありました。

特に、勘定所は幕府の機関としては珍しく筆算吟味という採用試験を実施しており、身分が低い者にも門戸を開いています。

例えば、川路聖謨は御家人から出世して旗本となり、勘定奉行にまで上り詰めました。また、笠間藩の下級藩士出身だった小野友五郎も、能力を認められて勘定奉行並にまで出世しています。

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川路聖謨(Wikipediaより)

このように叩き上げで勘定奉行に上り詰める者もおり、立身出世を目指す一般武士にとっての、いわば関門だったと言えるでしょう。




■明治政府にも影響を与えた「徳川の実力主義」

黒船来航以降は、人材の確保と育成のために、幕府は下級武士であっても積極的に抜擢するようになります。御家人や他藩の藩士、商人、富農も積極的に採り立てるようになったのです。

例えば、明治の言論界で活躍した福沢諭吉も元は他藩の下級武士です。また、経済界をリードした渋沢栄一も豪農の出身でした。

下級武士でも積極的に抜擢!意外と柔軟だった江戸幕府の身分制度は、明治の教育制度にも影響を与えていた


福沢諭吉像

こうした実力本位の考え方は、徳川家が駿河藩に転封されても継承されました。

徳川家は、家中の立て直しのために、幕府の研究機関である開成所を元にした静岡学問所と沼津兵学校を設置。
そこでは旧幕臣だけでなく、農民や町人であっても極めて高い水準の教育を受けることができたのです。

この、身分にとらわれない人材育成の姿勢は全国から注目を集め、明治新政府も教育制度を構築する上で参考にしているほどです。

残念ながら、明治5年(1872)の学制発布までに両校は廃止となりましたが、卒業生と教師は大多数が新政府に召し抱えられました。

その後も、明治になって少しずつではありますが、武士階級以外が活躍できる土壌も次第に醸成されていきます。そして明治維新から2年後の明治25年(1893)には、官僚への登竜門である高等文官試験制度が整備されました。

見過ごされがちではありますが、新政府の教育制度や人材登用の在り方にも、徳川幕府が少なからず影響を与えていたことは間違いありません。


参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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