そこで今回は、藤原兼家の妻のひとり・藤原道綱母(大河ドラマでは、財前直見さんが藤原寧子という役名で演じています)が書いた『蜻蛉日記(かげろうにっき)』についてご紹介します。
藤原道綱母(柳々居辰斎画)Wikipediaより
※合わせて読みたい:
胸が熱くなる…よかったね道綱!急な無茶ぶりに見事応えた、残念な子・藤原道綱と母のエピソード【光る君へ】
■『蜻蛉日記』とは?まずは概要をおさらい
『蜻蛉日記』は、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)によって書かれた女流日記文学です。成立は天延2年(974年)前後と考えられています。上中下の3巻からなります。
なお、『蜻蛉日記』という名前の由来は、上巻の末尾に「あるかなきかの心地(ここち)するかげろふの日記といふべし」という部分に書かれています。
■『蜻蛉日記』で書かれていることとは?
『蜻蛉日記』は、天暦8年(954年)から天延2年(974年)の出来事が中心に書かれています。藤原兼家に求婚され、結婚しますが、正妻・時姫の存在や、次々と現れる他の妻たちの存在に、悲しく苦しい気持ちになっている様子、また、兼家が自分のもとに通うのが絶えたことに対する非難などが描かれています。
■『蜻蛉日記』と藤原兼家
『蜻蛉日記』には、確かに藤原兼家への不満ともとれる記述があります。しかし、求婚中に兼家が送った情熱的な和歌や、彼女が妊娠中に兼家が送った愛情溢れる和歌なども載っています。
このように、兼家の和歌も多く載っていることから、兼家の協力もあってできた宣伝の書物ではないかという考え方もあります。
■『蜻蛉日記』の文学的意味
『蜻蛉日記』は日記文学のひとつですが、まずは「日記」ではないことに注意が必要です。他人に見せることを前提としない「日記」に対して、「日記文学」は公的なもので、他人に読んでもらうことを前提とした文学です。記述や描写が文学として優れていることも特徴です。
『蜻蛉日記』は、後世の文学にも大きな影響を与えました。『蜻蛉日記』は女性の立場を描いた作品としてパイオニア的な存在となり、紫式部が書いた『源氏物語』もこのテーマをさらに発展させたものとして考えられています。
また、自分の心情や経験を客観的に省察する「自照文学」のはじまりとも捉えることができます。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
トップ画像:蜻蛉日記(岳亭春信画)Wikipediaより
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan