明治時代の政治ドラマではやや影が薄い印象の岩倉具視ですが、華族制度を確立させ、立憲君主制を確立させる筋道を作ったその功績は無視できないものがあります。
このように、明治時代初期の政府は、公家出身の政治家たちによって運営されていたことを【前編】では説明しました。
初期の明治新政府を運営したのは薩長ではなく公家だった!~ 公家による政治運営から内閣制度発足まで【前編】
では、公家たちによる政治から、伊藤博文をはじめとする薩長閥の政治家へと権勢が移っていったのは、どのような流れだったのでしょうか。
岩倉具視は明治16年に食道がんで亡くなり、彼の死によって、当時の明治政府を支えていた太政官制度は機能不全に陥ります。
まず喫緊の課題は、岩倉具視と並ぶ実力者だった三条実美を誰が補佐するのか、ということでした。これは、大隈重信が明治14年の政変によって追放された以上、できるのは伊藤博文以外にありえません。
三条実美(Wikipediaより)
ここで、薩長のバランスを取るために左大臣に伊藤博文を、右大臣に薩摩出身の黒田清隆を据えるという案が浮上します。
しかし黒田清隆には妻殺しの疑惑がありました。
一方の伊藤も、どうせなるなら左大臣とかではなく太政大臣がいいと考えていました。ただ問題は、彼が下級武士出身であることです。下級武士を太政大臣にするというのはとんでもない話でした。
そこで、太政官制度を廃止して、内閣制度に置き換えようという案が出てきたのです。
■「初代内閣総理大臣」の誕生
そもそも太政官制度と内閣制度は、どのような点が違うのでしょうか。
一方の内閣制度は、閣僚たちはあくまでも横並びの存在であり、その中の首席である「首相」が政府の第一席ということになります。
太政大臣の三条実美としては、内閣制度の採用は避けたいところでした。しかし上述のように左右の大臣になれる人物がいない以上、致し方ありません。
こうして、太政大臣にかわる総理大臣として、伊藤博文が選ばれたのです。
伊藤博文(Wikipediaより)
ここに初代内閣総理大臣である伊藤博文が誕生し、一方の三条実美は内大臣というポジションになり、政府と天皇の橋渡しをする立場になりました。
つまり、内閣制度というのは、有り体に言えば身分上の問題から伊藤博文を太政大臣にできなかったため、伊藤のために造られた制度だったのです。
■影響を持ち続けた「公家」の系譜
ここからが、日本の政治の路線が大きく変わっていくポイントとなりました。公家による独裁体制が終わり、薩長閥が政治を運営する内閣制度がスタートしたのです。
下級武士の出身だった伊藤博文が日本の最高権力者になったー。これにより、薩長の下級武士出身の者たちも、天皇のもとで最高権力を行使できるようになったわけです。
これは現代の視点で見れば機会均等の実現であり、日本で初めての、最も民主化された制度でした。
もっともその一方で、薩長の出身者による藩閥政治や権力争いの温床になったともいえます。
とはいえ、公家たちの存在感も失われたわけではありません。
性急な民主主義の採用が国のためによくないということは、当時の閣僚たちもよく分かっていました。そのため、三条実美が在世中は彼の権威に経緯が払われ続けました。
また、考えてみれば明治天皇も旧公家グループの一員であるわけで、この公家グループの系譜はその後も途切れることはありませんでした。西園寺公望、近衛文麿、昭和天皇、そして細川護熙と、この系譜は日本史の節目節目で政治に大きな影響を及ぼしています。
大磯城山公園・旧吉田邸にある四賢堂
伊藤博文は、後年大磯の自宅の敷地に四賢堂を建てており、四人の先人を祀っています。そのうちの二人が大久保利通と木戸孝允で、さらにそこへ岩倉具視と三条実美が入っていることも、故無き事ではないと言えるでしょう。
参考資料:
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年・PHP新書
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan