■微妙な立場の長岡藩

幕末期の戊辰戦争と言えば、誰もが有名な会津戦争や五稜郭の戦いを思い浮かべるでしょう。

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しかしもうひとつ、それらの戦闘よりも前に、新政府軍が大いに苦しめられた戦闘がありました。
越後国長岡藩と新政府軍が激突した北越戦争です。

ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由
長岡の真ん中を流れる信濃川


この北越戦争については、司馬遼太郎が『峠』という小説でもテーマにしているので、知っている人も多いでしょう。

ではこの北越戦争、どのようなものだったのでしょうか。

ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由


北越戦争の様子 歌川芳盛作(Wikipediaより)

もともと、幕末期の長岡藩は微妙な立場でした。会津藩のように新政府軍に対する恨みがあるわけでもなく、だからと言って東北諸藩と対立して新政府軍の味方をする気もない、という立ち位置だったのです。

しかしこの頃の日本はそうした中立の立場は許されず、藩と新政府軍との交渉が決裂したことをきっかけに、1868年5月2日に戦闘の火ぶたが切って落とされたのでした。


長岡藩の兵力は5千程度、新政府軍は約3万です。戦力差は歴然でした。しかし実際に戦闘が始まると、長岡藩は何度も相手を撃退し、結果として二か月以上も持ちこたえています。

長岡藩はなぜここまで善戦できたのでしょうか?



■実は使えなかったガトリング砲

今までは、北越戦争で長岡藩が善戦できた理由は、最新兵器で新政府軍を圧倒したからだとされていました。

実際、北越戦争が勃発する二年前には、長岡藩は軍制の近代化を推進し西洋式の訓練を導入していました。さらに、外国人商人から武器弾薬も大量に購入していたのです。


購入した武器の中には、当時は日本にまだ三門しか存在していなかった最新兵器・ガトリング砲も含まれていました。明治時代を舞台にした某剣豪漫画でおなじみの、一分間に360発の弾丸を発射できるこの武器を長岡藩は二つも購入していたのです。これによって新政府軍は圧倒されたと言われています。

ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由


A-10攻撃機のガトリング砲

ただ、それにしても疑問は残ります。当時のガトリング砲は弾詰まりを起こしやすい上に、非常に重いため扱いにくく、何もかも蹴散らすほどの威力は発揮しなかったと思われるのです。

それに結果を見れば、そもそも長岡藩は北越戦争で敗退しています。
最新兵器は必ずしも圧倒的ではなかったことになります。

では改めて、長岡藩はなぜ善戦でき、そして敗北したのでしょうか。



■河井継之助という男

実は、長岡藩が善戦できたのはひとえにマンパワーのおかげでした。兵器ではなく、指揮官が優秀だったのです。

北越戦争における長岡藩の指揮官の名は河井継之助。日本史の教科書などではなかなか名前を見かけない人物ですが、今でも彼の名前は地元で語り継がれています。


ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由


河井継之助(Wikipediaより)

河井は戦闘が始まった5月2日には指揮官として戦闘に参加しており、まず5月10日に、信濃川を突破してきた新政府軍を撃退しました。

翌日には新政府軍の反撃が始まりますが、河井は地の利を生かした戦術に出ます。彼は山地に陣を構えて戦いを優位に進めたのです。

しかし、さすがに数で劣っていた長岡藩は追い詰められていきました。5月19日に、かの山縣有朋によって長岡城が奪われたことをきっかけに、藩内では新政府軍に寝返って工作活動を始める者が現れ始めます。

7月25日にはなんとか長岡城を奪還しますが、この時すでに兵力は底をついていました。
河井が足に怪我を負って戦線から離れると、指揮官不在の状態で軍は敗走し、8月16日の河井の死と時を同じくして、長岡藩は降伏したのです。

ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由


河井継之助の墓

こうして見ていくと、これまでの通説とは異なり、長岡藩が善戦したのは最新兵器のおかげではなく優秀な指揮官・河井継之助あってこそだったことが分かりますね。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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