幕末期に、東北・北陸の諸藩が同盟を結んで新政府軍と戦った奥羽越列藩同盟というのがあります。この同盟は、歴史に詳しい方ならご存じでしょう。
この同盟は今までは諸藩が一致団結していわば「ワンチーム」となって戦ったようなイメージがあります。しかし実際にはそうではなく、同盟そのものが半強制的だった上に裏切りも相次いだという代物でした。
そのあたりの経緯を説明しましょう。
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悲劇の奥羽越(おううえつ)列藩同盟…幕末期に東北の諸藩はなぜ団結したのか?
まず、当時の会津藩と長州藩の関係を知っておく必要があります。新政府軍の主力だった長州藩は、もともと会津藩に恨みがありました。松平容保が攘夷志士を何人も摘発していましたし、政変によって京から長州を追い出した経緯などがあったからです。
会津武家屋敷所蔵の松平容保像(Wikipediaより)
そこで、江戸城の無血開城が行われると、新政府軍は矛先を会津へと向けます。もともと松平容保は新政府に対して恭順の意志を示しており、東北諸藩は会津に対して同情的でした。しかしある事件をきっかけに、開戦は避けられない流れになります。
きっかけは、東北の鎮圧を任された奥羽鎮撫使の参謀である世良修蔵が、東北諸藩を敵視して挑発的な態度を取ったことでした。これに激怒した仙台藩士が世良を殺してしまったのです。
世良修蔵(Wikipediaより)
こうして、開戦やむなしという流れができてしまい、東北諸藩はまず「奥羽列藩同盟」を結成。
■最初からあった不安要素
しかし先に書いた通り、この同盟は最初から危ういものでした。参加した諸藩が、必ずしも一致団結していたわけだはなかったのです。
そもそも、参加した諸藩の中には、断り切れずに仕方なく参加した藩もありました。同盟を結んで新政府軍と衝突することに懐疑的だったものの、強硬論を説く藩に圧されて半強制的に参加したところもあったのです。
同盟のひとつである二本松藩の二本松城跡
例えば、越後国の新発田藩は仙台・米沢藩からの恫喝を受けて参加しただけでした。
しかも、その仙台・米沢藩も一致団結していたわけではありません。仙台は主戦派でしたが、米沢は専守防衛派という違いがありました。こうした意見の相違があった上に、両藩は同盟の主導権争いで対立していたのです。
■裏切り・瓦解・そして禍根
これでは結束も何もありません。奥羽越列藩同盟では裏切りが相次ぎました。
まず、結成から二か月ほど経った7月には、久保田藩(秋田藩)が寝返ります。同藩は勤皇思想が根強く、奥羽鎮撫総督府の征討命令を口実にして同盟から離反したのです。そして、旧幕府軍と戦闘状態に突入しました。
秋田市の久保田城跡(現在の千秋公園)
これに呼応して、周辺の新庄藩や亀田藩、矢島藩も相次いで同盟を裏切ります。また三春藩は新政府軍と戦うことなく降伏し、先述した新発田藩も同盟を見限っています。これによって新政府軍は新潟方面の進軍がスムーズに進めることが可能となり、北越戦線で優位に立ちました。
このあたりの裏切りの経過や同盟内での内紛がきっかけで、今も県内で禍根が残っている地域があります。
例えば山形県は、海沿いの庄内地方と内陸地方との間で今もぼんやりとした対立意識のようなものが存在します。それは今では「芋煮の味付けは味噌味か醤油味か」などというテーマでときどき噴出してくるのですが、実はそうしたぼんやりした対立意識は、幕末期に旧幕府軍と新政府軍に分かれて戦った歴史に端を発しています。
奥羽越列藩同盟に参加した諸藩は、反新政府という意識でまとまっていたわけではありませんでした。新政府寄りの藩もあれば勤皇思想が強い藩もあったのです。また、同盟諸藩が苦戦したことで寝返った藩も少なくありませんでした。
考え方や立場の異なる藩を強制的に組み込んだことが、奥羽越列藩同盟が瓦解した原因だったと言えるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan