死者を蘇らせる。

医学の発達した令和の時代でもなし得ない事を、平安時代のとある人物が成し遂げたことはご存知だったでしょうか。


その人物は藤原有国(ありくに)、平安時代中期の公卿です。

今回は、藤原有国がどのような人物だったのか触れつつ、死者蘇生のエピソードについてご紹介します。

■兼家の眼だった有国

陰陽師でもないのに陰陽道の祭祀を執り行い、なんと死者を蘇らせ...の画像はこちら >>


藤原兼家/Wikipediaより

有国は藤原北家真夏流出身で、曾祖父と祖父が受領と大学のトップである大学頭を務めていたことから、実務と学問を重んじる家風の中で、大学寮で紀伝道を学びました。

天禄4年(973)には円融天皇に仕えていたことをきっかけに、外戚の藤原兼家から能力を認められ兼家の家司となります。

兼家の元で有国は、従四位上・左中弁まで昇進し、右中弁だった平惟仲と「左右のまなこ」と評されるほどの信頼を得ていました。

■道長に才能を拾われる

陰陽師でもないのに陰陽道の祭祀を執り行い、なんと死者を蘇らせてしまった平安貴族・藤原有国の奇跡


藤原道長/Wikipediaより

しかし、兼家の後継者問題で有国は次男の藤原道兼を推したことをきっかけに、雲行きが怪しくなり始めます。


兼家の後継者には長男の藤原道隆が選ばれたことで、有国のことを知った道隆は、有国を大膳職の秦有時の殺害を企てたとして官位を剥奪して朝廷を追放しました。

その後、道隆と道兼が没し、藤原道長が権力を有すると、道長の家司となります。

そして、59歳となる長保3年(1001)の時に、大宰大弐を経て従二位・参議に叙任され、以降は道長の側近として活躍しました。



■有国はこうやって死者を蘇らせた

陰陽師でもないのに陰陽道の祭祀を執り行い、なんと死者を蘇らせてしまった平安貴族・藤原有国の奇跡


閻魔大王/Wikipediaより

波乱万丈な人生を送った有国が死者を蘇らせたのは、自身が若い頃の時。

受領であった父・藤原輔道と共に九州に赴いた際、病気により父を亡くしてしまいます。

そこで有国は、人間の寿命を司る冥界の最高神でありながらも、陰陽道の主神である泰山府君(たいざんふくん)を祀った「泰山府君祭」を執り行ったところ、驚くことに輔道の生き返しに成功しました。


輔道はこの状況に驚きつつも、泰山府君祭による素晴らしい供物があったことから、閻魔大王より生き返してやるよう判断が下ったと有国に説明します。

続けて「陰陽道に精通していない有国が、陰陽道の最高奥義である泰山府君祭を行ったのは重罪に値するため、輔道の代わりに有国をあの世に送るべき」との意見があの世の官人より出たが、別の官人が「有国の行為は親孝行に当たるものだから、罰してはいけない」とのやり取りがあったことも伝えました。

このようにして有国は、罰せられることなく父を蘇らせる最大の親孝行を果たしました。

■安倍晴明も泰山府君祭を催していた

陰陽師でもないのに陰陽道の祭祀を執り行い、なんと死者を蘇らせてしまった平安貴族・藤原有国の奇跡


安倍晴明/Wikipediaより

この話は『今鏡』や『古事談』、『十訓抄』といった3つの史料に記録されています。また、安倍晴明も重病の高僧の命を救うために泰山府君祭を催しており、その話は『今昔物語』にも残っています。

泰山府君祭自体、天皇の長寿を祈る朝廷の重要な国家祭祀なのに対し、死者を蘇らせるために使った有国のケースは非常に珍しいものと言っても過言ではありません。


参考:朝里樹『歴史人物怪異談事典』‎2019年、幻冬舎

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