彼の幸運は家督継承戦を勝ち抜き、正室である源倫子の経済的支援と多産(主に女児)によって支えられたものでした。
しかしその息子たちは父のように上手く行かず、やがて摂関政治の斜陽を迎えることになります。
娘たちは父親の野望に振り回され、必ずしも幸せとは言えませんでした(それは道長の娘たちも同じですが……)。
今回はそんな一人・藤原生子(せいし/なりこ)を紹介。果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。
■後一条天皇への入内に失敗
周囲からの冷たい視線(イメージ)
藤原生子は長和3年(1014年)8月17日、藤原教通と正室・藤原公任女(きんとう娘。実名不詳)の間に誕生しました。
生子が17歳となった長元3年(1030年)、父の教通は生子を後一条天皇(敦成親王。一条天皇の第二皇子)に入内させようとします。
この頃の教通は兄の藤原頼通としきりに張り合っており、あわよくば権力の座を奪い取らんと必死でした。
しかし後一条天皇には叔母の藤原威子(いし/たけこ。道長四女)が既に入内しており、生子が入内すれば一族同士で無用の争いを惹き起こしかねません。
教通の野望を前に、威子はボイコットの姿勢を示し、また祖母の源倫子や伯父の藤原頼通は猛抗議。
仕方なく教通は生子の入内を取りやめましたが、こうなることは容易に予測出来なかったのでしょうか。
■後朱雀天皇へ無理やり入内

後朱雀天皇(画像:Wikipedia)
かくして生子の初婚は未遂に終わったのですが、長暦3年(1039年)には後朱雀天皇(敦良親王。一条天皇の第三皇子)へ無理やり入内させられました。
この時ばかりは頼通の妨害をものともせずに強行した教通ですが、生子としてはたまったものではありません。
入内に用いる輦車(れんしゃ)を頼通に貸してもらえず、教通は大急ぎで輦車を造らせたと言います。
また頼通への遠慮から、祝賀に参列した殿上人はわずか5名。藤原経通(つねみち)、藤原定頼(さだより)、藤原信長(のぶなが)、藤原経家(つねいえ)、藤原顕家(あきいえ)だけでした。
ほとんど誰も祝ってくれない結婚式。これは父のあくなき野望による犠牲と言えるのではないでしょうか。
■わずか6年の夫婦生活

花の命は短いもの(イメージ)
とまぁこんな具合に入内は散々だった生子。しかし後朱雀天皇との夫婦仲は円満だったと言います。
やがて後朱雀天皇は生子を皇后に立てたいと希望しました。
しかし頼通は生子が摂関家の娘(父親が摂政か関白)でないこと、そして皇子を生んでいないことを理由に拒絶。生子の立后は立ち消えとなります。
結局子供は生まれないまま寛徳2年(1045年)1月16日に後朱雀天皇が譲位。その2日後となる1月18日に崩御すると、生子は内裏を退出。わずか6年足らずの結婚生活でした。
そして天喜元年(1055年)に出家、治暦4年(1068年)8月21日に55歳で崩御します。
■終わりに
今回は藤原教通の野望に振り回された長女・藤原生子の生涯をたどってきました。
あまり幸せそうには見えませんが、わずか6年でも後朱雀天皇と過ごした日々はかけがえのないものであったと信じたいものです。
年代的に考えてNHK大河ドラマ「光る君へ」にはほとんど登場しないでしょうが、もし登場するなら誰がキャスティングされるか、教通との関係がどのように描かれるかなども気になりますね。
※参考文献:
- 芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年10月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan