平清盛が実権を握る直前の時代に、不遇の天皇がいました。「新院」「讃岐院」「讃岐廃帝」などとも呼ばれた、崇徳院です。
鳥羽天皇と中宮璋子(待賢門院)の第一皇子として元永2(1119)年に生まれた崇徳院は、保安4(1123)年にわずか5歳で第75代天皇に即位しました。
その17年後の保延5(1139)年、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子(なりこ・後の美福門院)が體仁(としひと)親王を産みます。すると鳥羽上皇は、崇徳天皇に退位を迫り、永治元(1141)年に體仁親王を第76代・近衛天皇として即位させてしまいました。
鳥羽上皇は出家して法皇となり、上皇となった崇徳院は「新院」と呼ばれることとなりました。近衛天皇は幼かったために、鳥羽法皇による院政が行われることとなりました。
崇徳上皇はこの時点で、いわば「実権なき上皇」でした。
その後、近衛天皇は17歳の若さで亡くなり、鳥羽法皇の第4皇子で29歳の後白河天皇が即位しました。これは崇徳上皇を良く思わない一派(美福門院・藤原忠道ら)の陰謀で、崇徳上皇の皇子・重仁親王が天皇となり、崇徳上皇による院政が行われるようになることを、何としても阻止するためでした。
保元元(1156)年に鳥羽法皇が崩御すると、美福門院・藤原忠道らと崇徳上皇派の対立は、一層激しくなっていきました。その年、崇徳上皇は左大臣・藤原頼長らと共に反乱を起こしましたが失敗し、讃岐(現在の香川県)に流され、二度と京に戻ることのないまま、長寛2(1164)年に46歳で亡くなりました。
■壮絶な恨みを抱き、ついには妖怪伝説まで・・・
讃岐へ流されてからの崇徳院の生活は、壮絶なものだったと伝えられています。
仏教に傾倒した崇徳院は、五部大乗経の写本を「京の寺に納めて欲しい」と朝廷に差し出したのですが、後白河天皇は「呪詛が込められているのでは」と疑い、受け取りを拒否。
崇徳院はこのことに激怒し、なんと自分の舌を噛み切って流れた血で、送り返された写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書いたということが『保元物語』に記載されています。
その後の崇徳院は、爪や髪を伸ばし続け、まるで夜叉か妖怪かというような凄まじい姿で亡くなりました。

崩御した崇徳院の棺からは、ふたを閉めてあるのに血が溢れ出て来たとも、生きながら天狗になったとも伝えられていて、その恨みが相当深かったことが窺えます。
その後、京で大火や雷雨など災害が起こる度に、人々の間では「崇徳院の祟りである」とまことしやかに囁かれました。『雨月物語』『椿説弓張月』などにも崇徳院は「怨霊」として描かれ、そのイメージは現代に至るまで定着しています。1868(慶応4)年、明治天皇によって崇徳院の神霊が京へ帰還させられ、白峯神社が建てられました。

崩御からおよそ700年、悲劇の廃帝はようやく京都へ戻ることができたのです。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan