■うち続く乱世に、尊氏は隠遁することを求めるが…
天龍寺
その翌年、かつては敬愛する主君であった後醍醐天皇が失意の内に崩御したのを知った尊氏の悲しみは大きく、『陛下の魂をお慰めせねば』と寺の建立を志します。後醍醐天皇を供養する寺を建立する資金を得るために元(モンゴル帝国)に天龍寺船を派遣し、それによって建立されたのが、天龍寺です。
また、かねてから尊氏は隠遁する願望があり、清水寺にもそうした願いを込めた願文を納めていました。敵味方問わず戦没者を慰霊するために安国寺や利生塔と呼ばれる寺院を各地に建立させ、穏やかな余生を願った尊氏でしたが、それは叶いませんでした。
1348年に楠木正成の子供達に勝利し、南朝を順調に追い詰めていた尊氏の人生に陰りが差します。その翌年、幕府内で尊氏将軍の軍事補佐を担う高師直と、政治を一任されていた弟の直義との間に起こった争いこそが、観応の擾乱の前夜祭と言うべきものでした。
■弟、側近、子供までもが敵になり、南朝も交えた観応の擾乱が勃発!

足利直冬
ばさら大名と呼ばれて古いしきたりを嫌う師直は、皇室や寺社の権威を重んじる直義と方針を巡って対立し、支持者同士も激しく争いました。両者の間に立っていた尊氏は非情な裁きが出来ず、争いをやめさせようとします。しかし、側室との間に産まれた子で直義の養子でもある直冬(ただふゆ)が南朝と組んで実家のある北朝に背くなど、身内争いは南北朝の争いにも飛び火します。この争いは当時の北朝が用いた年号に由来し、観応の擾乱と呼ばれました。
対立は権力や領土を重んじる武士だけでなく、元から仲の悪かった貴族社会や皇室の身内争いを悪化させ、尊氏の願いとは真逆の現実が到来してしまったのです。直義と直冬の討伐のために南朝と一時的に和睦したことで尊氏が将軍を解任されたり、北朝の皇族が捕まるなど、長く続いた観応の擾乱は1351年に師直が暗殺され、1352年に直義が降伏して終焉を迎えます。
この直後に直義も世を去り、悲しい形ではありますが尊氏の敵は一掃されました。その後、再び北朝を興して直冬が味方する南朝と戦い、統一を目指した尊氏でしたが、1358年に矢傷が元で危篤に陥ります。そして、義詮に後を託して4月30日に54歳で亡くなりました。なお、彼の夢であった南北朝合一による天下平定は孫である3代将軍義満の代に実現します。
■悪か正義か?尊氏と室町時代の真の姿は、これから明らかになっていく

足利尊氏の墓
天下が二つに分かれた時代の一因となっただけあり、尊氏は二通りの評価がなされます。夢窓疎石(むそそせき)と言う北朝の禅僧は、「死を恐れぬ勇気、人を許す慈悲、物惜しみしない心の広さ」を称えました。つまり、お人好しで豪快な親分肌のリーダーだったと言うことです。
敵対した南朝の貴族・北畠親房は、その人望と力が脅威をもたらした尊氏を嫌い、「アイツは前代未聞の盗賊」と自らの著作『神皇正統記』で糾弾しています。こうした尊氏に対する二つの見解は、人物に対する評価が政治権力や時代の風潮で変わる典型例であり、近代以降は後者が絶対視されるようになりました。それは倒幕の志士達が建武の新政を理想としたためで、建武政権に反逆した尊氏の墓や木像が破損される事件も起きました。
それでも明治期の研究や教育では、建武政権の失政と尊氏決起の理由をきちんと書籍に記していたのですが、国策教育で南朝正統論が広まるに従って南北朝時代を論じることすら困難になり、尊氏は絶対的な悪人とされ続けました。そうした不遇の時代は終戦と共に終わり、南北朝時代と尊氏の関心は明治期のような自由性と共に甦ります。
真田広之さんが尊氏役を演じた大河ドラマ、その原案となった吉川英治さんの小説が人気を博した事や、児童書に足利氏が取り上げられるなど、室町時代は近年になってから再評価と研究が急激に進み始めました。第一項で紹介した著作『観応の擾乱』もそのひとつです。
そのレジェンドと言っても差し支えない人望と勇気で室町時代の基礎を築いた足利尊氏は現在、京都の等持院に葬られています。そして、彼のように悩みながらも懸命に生きる私たち日本人を、あの頃と変わらない情け深い眼差しでこれからも見守り続けていくことでしょう。
- 画像:Wikipedia『天龍寺』『足利直冬』『足利尊氏』より
- トップ画像:月岡芳年「大日本名将鑑 足利尊氏」より部分
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan