当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」
明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?
江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった?
火事が起きると、町人たちが見物しようと集まっていました。そこで、「火事が起きても、まっすぐ家に帰ること。見物するものは厳しく追い払うこと」というお触れが出ていたそう。
■見物人が多いと他の犯罪も起きやすくなる
見物人が多いと消火活動がしづらいのはもちろんのこと、他の犯罪も起きやすくなります。
また、火事場見物の中に放火の犯人がいることもあります。実際に、目黒行人坂の大円寺から出火した「明和の大火」は、窃盗目的の放火が原因でした。
■火事に関するお触れは細かく
火事は、町全体に混乱をきたします。
「風が強い日は、特に用事があるとき以外は外出せず、火を起こさない」「提灯など火を使用するものは、使うたびに入念に注意すること」「水桶にはいつも水を貯めておくこと」「万が一火事がおきたら畳をかぶせて消火すること」…まだまだ、火事に関するお触れはあります。
それだけ当時、火事が多かったのでしょうね。
■延焼を避ける火除け地
延焼を避けるための空き地である火除け地は、必須でした。火除け地を増設するためには道路を広げ、さらに家の建て方にまで細かく指示を出したので、町民にとってはたまったものではありませんでした。文句を言いたいところですが、「火事を防ぐため」という明確な目的があるので、渋々としたがっていたのでしょう。
火事が起きるとそのたびに物価が高騰したので、経済の混乱を防ぐためにこんなお触れも出ていました。
「火事の直後に、材木などを値上げしないこと。個人の利益を考えず、手間賃も余分に取ってはいけない」。
これは、庶民にとっては大助かりのお触れだったはず。いずれにしても、火事が起きないのが一番ですね。
参考文献:江戸のお触書、大江戸ものしり図鑑
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