次々と命を落とす乗組員…10年に及ぶサバイバル生活。
■ロシアを大横断
天明7年(1787)の夏、一行はカムチャッカ半島に着き、ニジニカムチャツクに連れていかれます。食事も支給され、気温も比較的温暖でここの生活はアムチトカ島より良いもの…かと思いきや、冬になった途端、アムチトカ島を超える寒さと飢饉で木の皮しか食べるものがなくなり、3人の仲間が壊血病にかかって命を落としました。
アムチトカ島も充分に過酷でしたが、それを超えるほどの飢饉でした。そのうちに春が訪れ、川で魚が取れるようになり、6人だけは餓死を免れました。食べ物が尽きた状況で6人が生き残ったのは、どんな時も生きて日本に帰る意思を失わず、仲間を励まし統率し続けた光太夫の存在が大きかったようです。
またもや減ってしまった光太夫一行は「日本に帰国するにはイルクーツクのシベリア総督府まで行けば帰国に繋がるかもしれない」という情報だけを頼りに、マイナス50度を超える極寒の中を移動し続け、オホーツク、ヤクーツク、ついにイルクーツクに至ります。漂流から実に7年後の寛政1年(1789)の事でした。
■イルクーツクにて…
到着したイルクーツクでショッキングな出来事が起こります。仲間のうち、庄蔵という青年が移動中に凍傷にかかり、片脚を切断してしまったのです。更には一縷の望みでシベリア総督府に2度帰国嘆願書を提出しましたが、一度は返事が来ず、ようやく来た返事は「帰国は諦め、日本人学校の教師になれ」という残酷なものでした。
ロシアは光太夫らを日本語教師として学校を開き、日本語の通訳を育成して日本に交易を求めようと考えていたのです。日本語教師を受けたら最後、死ぬまでこの地で教師として生涯を送るしかない。
光太夫はこの国難を日本に知らせるためにも、何が何でも帰国しなければならないと思い始めます。こうした考えから彼は日本人学校の話を断り、漂流話を聞きたがるイルクーツクの上流市民らの晩餐会に毎晩招かれ、地道にコネクションを作り続けました。
そんな中、キリル・ラックスマンという人物を紹介されます。
(その4につづく)
参考文献:山下恒夫 『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』岩波新書 岩波書店
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