■前回のあらすじ

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美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【上・浪士組編】

時は幕末、浪士組に入れて貰えなかった上州の女剣士・中沢琴(なかざわ こと)は、男装して無理やり京都に同行。

しかし、京都に着くといきなり江戸への帰還命令が出され、京都残留を主張する壬生浪士組(後の新選組)に心惹かれるも、兄・貞祇(さだまさ)に説得され、仕方なく江戸に帰って来たのでした。


■新徴組の一員として、江戸の平和を守る日々

さて、江戸に戻ってきた浪士組はまとめ役の清河八郎が暗殺(文久三1863年4月13日)されたことで尊皇攘夷の意欲を失い、空中分解しかけたところを、幕臣である山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)やその義兄・高橋泥舟(たかはし でいしゅう)らの主導で新徴組(しんちょうぐみ)に再編されました。

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山岡鉄舟(左)と高橋泥舟(右)。

もちろん琴や貞祇は喜んで参加し、同年10月から晴れて江戸の市中警護や海防警備として江戸湾の見張りなどを担当しましたが、琴の「イケメン」ぶりは江戸の街でも大層な評判を呼んでいたそうで、女性も男性も追っかけが多く、やっぱり難儀していたそうです。

ところで新徴組には沖田林太郎(おきた りんたろう。新選組・沖田総司の義兄)や、思想の違いから壬生浪士組を脱退した剣客・根岸友山(ねぎし ゆうざん)など一廉の人物が名を連ねた一方で、甲州博徒の祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ。この頃は山本と称する)など、浪士組の段階からこれと言った目的もなく参加し、惰性で居残っていたような志の低い者も少なからず雑じっていました。

そんな一部が生活苦かあるいは遊ぶカネ欲しさでしばしば乱暴狼藉に及び、同じ新徴組同士で取り締まったり取り締まられたりと言った不毛な事態が散発していました。

そこで幕府は明けて元治元1864年、新徴組を出羽国庄内藩(現:山形県鶴岡市)の譜代大名・酒井家(当主:酒井忠篤/さかい ただずみ)に預けてきちんと面倒を見させることとします。

美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【中・戊辰戦争編】


庄内藩主・酒井忠篤(明治期)

庄内藩は暗殺された清河八郎の出身地という縁があり、また酒井家の幕府に対する篤(あつ)い忠義も高く評価されてのことでしょう。

これがまた後に琴たちの運命を大きく左右するのですが、ともかく江戸の平和を守るため、琴と貞祇たちは過激な攘夷派のテロ活動を取り締まるなど、懸命に奉公したのでした。

しかし、風雲急を告げる時代の奔流が、徐々に琴たちの傍近くまで迫っていきます。

■ついに暴発!江戸薩摩藩邸の焼き討ちに参戦

慶応三1868年ごろになると、倒幕の野心を露わにする薩摩・長州による幕府への挑発がエスカレートし、ついに江戸市中の警護に当たっていた庄内藩や新徴組の屯所(とんじょ。
詰所)も襲撃を受けます。

事ここに至って、もはや堪忍袋の緒が切れた庄内藩は12月25日、軍監・石原倉右衛門(いしはら くらゑもん)を総大将に、上山藩・鯖江藩・岩槻藩・出羽松山藩と共同で兵一千を率いて江戸薩摩藩邸に進軍。

江戸薩摩藩邸へ逃げ込んだ襲撃犯の引き渡しを求めるも拒絶されて交渉決裂、激しい戦闘の砲火によって江戸薩摩藩邸は焼亡してしまいました。

一方の新徴組は薩摩藩・島津家の支族である日向佐土原藩邸の襲撃を担当。琴や貞祇も果敢に斬り込み、大いに活躍したそうですが、この戦闘で琴は左の踵(かかと)を斬られてしまいます。

この戦闘による死者は幕府側が11名、薩摩側が64名。薩摩藩が匿っていた過激派浪士112名を捕縛するなど大戦果を上げましたが、この事件が戊辰戦争(ぼしんせんそう。慶応四1868~明治二1869年)の引き金となり、日本を二分する大規模内乱の火蓋が切って落とされるのでした。

■恩に報いる為ならば……庄内戦争でも大立ち回り

明けて慶応四1868年、鳥羽・伏見の戦い(1月3日~6日)で幕府軍が敗れると、新政府軍は幕府の譜代大名としてあくまでも徳川将軍家に忠誠を貫く庄内藩を追討するよう東北諸藩(山形藩、秋田藩など)に命じます。

これは主君の一大事とあって、日ごろ恩義に与ってきた新徴組は江戸在勤の藩士らと共に一路庄内へと急行しますが、その道中、貞祇は左足をかばって歩く妹を案じて、帰郷を促します。

「琴よ。お前はもう十分に戦(たたこ)うた。
その足で庄内まで行くのは難儀じゃろうから、道中で離脱して故郷・穴原へ帰れ」

「これしきの怪我で何をおっしゃいますか!たかが鴻毛の命一つ惜しんで恩義ある主君の大事に報いねば、武士の名折れにございます。何より……我ら兄『弟』、死ぬも生きるも一蓮托生と誓(ちこ)うたではありませぬか」

美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【中・戊辰戦争編】


決死の覚悟で戦に臨む琴(イメージ)。

恩義に報いるためなら、自分の命など鴻毛(こうもう。鳥の羽毛)のように軽いもの。そんな琴の覚悟に、貞祇もそれ以上の説得はしませんでした。

「まぁ……お前ならそう答えるじゃろうな」

「はい!兄上、最期までお供致します!」

かくして新徴組は庄内藩と合流、迫り来る官軍(薩長軍や東北諸藩)を相手どって2ヶ月以上にわたる死闘を演じることとなりますが、これが後世に言う庄内戦争(明治元1868年7月11日~9月25日)です。

庄内戦争において新徴組が、琴と貞祇がどの戦線に、どのように(みんなまとめてor隊士ごとバラバラに)投入されたかは不明ですが、琴が獅子奮迅の大立ち回りを演じたエピソードが伝わっています。

琴たちが敵中深く斬り込んで乱戦のさなか、俄かに左足の傷が痛んで貞祇や仲間たちからはぐれ、敵兵十数名に取り囲まれてしまいました。

「おい、こいつ女だぞ!」

「何だと、散々手こずらせやがって!」

「身の程知らずめ、思い知らせて……ぐゎっ!」

一瞬の隙を衝いた琴は敵兵2、3名を斬り捨てて囲みを突破、九死に一生を得て再び貞祇らと合流し、庄内藩が新政府軍に降伏するまで、徹底的に抵抗を続けました。

美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【中・戊辰戦争編】


激しい戦闘が続いた(イメージ)。

ちなみに、戦闘そのものは終始庄内藩が優勢、ほぼ無敗だったそうですが、同盟諸藩が次々と降伏していく様子に天下の趨勢を覚った酒井忠篤は、ついに降伏を決断したそうです。

【下編に続く】

※参考文献:
岸大洞ほか『群馬人国記 : 利根・沼田・吾妻の巻』歴史図書社、昭和五十四1979年4月
石村澄江『上州を彩った女たち』群馬出版センター、平成二十六2014年11月
石川林『事件で綴る幕末明治維新史 上巻』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、平成十1998年6月
斎藤正一 著/日本歴史学会 編『庄内藩』吉川弘文館、平成七1995年1月

中沢琴(なかざわこと)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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