「人生を一つの“舞台”だとするならば、『親父の役の人生を見事に演じきったね!』とたたえてあげたい。僕にとって彼は誇りです」

そう語るのは、演出家の宮本亞門さん(63)。

今年6月24日に、94歳の父・亮祐さんを天国へと見送った。

亡くなる3日前、亞門さんは父の好物の鰻を持って実家を訪れた。

「喜んで少しは食べていたけれど、ふとしたときに仏像のような半眼で優しく遠くを見つめているんです。まるですべてを受け入れたかのように。このとき初めて、父が死ぬかもしれない、と感じました」

それから父は何も食べなくなり、3日後、眠るように天国へと旅立った。遺言のとおり、葬儀は身内だけで行ったという。

「再婚して家庭もある親父は、『灰はどこにまいてくれてもいい。とにかく金をかけないでくれ』と言っていました。晩年は『終活』を気にしてばかりで」

そのため、初七日も四十九日もせず、墓に納骨したのだという。

■昔は父のことが世の中でいちばん憎かった

「不思議なことに、母が死んだときは上から見守ってくれていると感じたのですが、親父はそこにはいず、人生をやりきったのか、すでに天国で母や友達とイキイキとしている気がしたんです」

亞門さんは父を送りながら、自身が21歳のときに亡くなった母・須美子さんのことを思い返していた。

「父の晩年、僕は『趣味は親孝行』なんて言ってましたが、母が亡くなるまでは親父のことが憎かった。酒を飲んで暴力はふるうし、浮気もする。

世の中でいちばん先に死んでほしいと思うほどでした」

亮祐さんは松竹歌劇団のダンサーだった12歳年上の須美子さんと駆け落ちし結婚。銀座で喫茶店を営んでいた。

’80年、亞門さんが出演する舞台の初日の前日のこと。須美子さんが脳溢血で倒れ、突然この世を去ってしまう。

■母が倒れても酔っぱらっている父

「『お母さんが倒れた』と電話しても、親父は酔っぱらっていて。怒鳴りつけるとようやく状況を理解して駆け付けてきました」

2人の願いはかなわず、病室で心電図の波が一本の直線になった。

「親父は泣かずに、おふくろの髪を指でそっと一本一本手ぐしでとかしていって。僕も医師もいるのに、おふくろの後頭部を抱いてキスをしたんです。まるで母が生きているかのように。親父がいかにおふくろのことを愛していたかが伝わってきました。その瞬間から、親父には僕はもう何も言えないと思ったんです。僕にはわからない、2人の長い人生があったのだと」

須美子さんは、亞門さんを出産するときの輸血で肝炎を罹患した。

「その影響で、母は年を重ねるごとに具合が悪くなっていきました。それでも母は『1秒もムダにしたくない』と、人生を大切に生きる強い女性でした」

そんな母は生前、亞門さんにこう説いたという。

「舞台の演出家になりたいなら、本物が集まるブロードウエーで磨いてきなさい。すべてを見なさい。目を閉じちゃだめーー」

その言葉が、亞門さんにニューヨーク行きを決意させたのだ。

また当時、妻を亡くし気力を失った父は、息子のアパートに転がりこんでいた。愛妻を亡くして以降活力がない父の姿を見て、「一緒にいるとお互いのためにならない」という思いもあったという。

出発の日、成田空港まで見送りに来た父と抱き合った。そのとき、小さなメモを手渡された。

「そこには『人生、悩むには短すぎる』と書いてありました。悩むために生まれたんじゃない、自分なりに精いっぱい充実した時間を過ごすことで、人は“生きててよかった”と思えるのだと。親父のメッセージが胸に響きました」

その後、亞門さんは’87年に演出家デビュー。

’04年にブロードウエーで演出を手がけた『太平洋序曲』がトニー賞にノミネートされるなど、国内外で活躍の場を広げていった。

編集部おすすめ