若いころは自分の好きなことしかやらなかった。強烈に惹かれたサーフィンで、猛練習、全日本で2位に輝いた。

結婚で海は引退と決めたが、体調の悪化、夫との不仲、入門し直した猿若流でしごかれて、悔し涙を流したことも。師範となり、サーフィンを再開したいまだからわかる。自分の半生は、決して“無駄足”ではなかったと――。

神奈川県藤沢市鵠沼海岸。

湘南エリアでも屈指の人気サーフスポットだけあって、沖ではこの日もボードに跨がった大勢のサーファーたちが、ころ合いの波を待ってプカリプカリと浮いていた。やがて、少し大きなうねりが沖から打ち寄せてくると、彼らは慣れた様子で、次々と波に乗って──。

「おおっ、笈川さん、やるなー!」

砂浜から沖を眺めていた記者の隣で、不意に大きな声を上げたのは、日本を代表する老舗サーフブランド「GODDESS(以下・ゴッデス)」の社長・鈴木正さん(79)。

その視線の先には、しっかりとボードの上に立ち、両手を広げ見事、波に乗る女性の姿が。

「はぁ~、楽しかったー」

満面の笑みを浮かべながら、重たいサーフボードを引きずるようにして浜に上がってきたその女性は、笈川孝子さん。よわい71、古希を過ぎてなお現役のサーファーだ。

同じく現役で、いまも全国各地の大会に出場している鈴木さんは「70代の女性サーファーなんて、見たことないよ」と笑う。

笈川さんは日本舞踊「猿若流」の師範をしながら、4年ほど前から海に通っている。

だが、それは彼女の人生で2度目のこと。鈴木さんはこう述懐する。

「あれはまだ、笈川さんが10代だったから50年前だ。毎週、東京からわざわざ通ってくるんで『やる気あるな、本気だな』と思ったもんです。まだ、まともなウエットスーツもない時代。バケツの水が凍るような真冬の寒い日も、海に入ってた。大した根性の持ち主だ、と感心したのを覚えてます」

笈川さんも当時を懐かしんだ。

「水着の上にTシャツ1枚、その格好で、雪が降るなか波乗りしてましたから。あれは寒かったなぁ」

じつは笈川さん、黎明期の60年代にサーフィンを始め、全日本選手権では準優勝も。彼女もまた“レジェンド”の1人なのだ。

いまやオリンピック種目にも採用されたサーフィンだが、笈川さんによれば、「かつて、世間では不良の遊びと思われてた」という。

「でもね、私は最初っから、純粋にスポーツとして捉えていました。

こんな素晴らしいスポーツ、なぜオリンピックでやらないのって。だから今夏、正式種目になった東京大会で、日本選手が活躍したことは本当に、本当にうれしかった」

レジェンドは相好を崩す。しかし、彼女が笑顔でふたたび海に戻ってくるまでには、陸の上での波乱と苦悩の長い歳月があった。

■プロか結婚か。岐路に立たされ、結婚を選んだ。

学生時代に出会ったサーフィンに夢中になった笈川さん。暇さえあれば海に通い、練習に明け暮れ、73年、全日本選手権で準優勝に輝いた。

「優勝者は湘南に住んでた女のコ。練習量が違う。彼女は毎日、海に入ってた。週に数回、東京から通っていた私には2位が限界でした」

大会後、笈川さんは鈴木さんから、こう持ちかけられたという。

「日本も、これからはプロサーファーが誕生する。

笈川さんも湘南に住んで、プロにならないか?」

このとき、23歳。笈川さんは人生の大きな岐路に立っていた。

「それまでも、沖に流され戻れなくなったり、死にそうな目に何度もあってたし。自分があと何年できるか、考えちゃって。ちょうどそのころ、のちの夫と付き合い始めてた。それで、波乗りじゃなく結婚を選んだの。二度と海には戻らないという覚悟でね」

友人の結婚式の二次会で出会った彼は同い年。笈川さん同様、実家は寿司店を営む板前だった。「堅い職業の男性に嫁がせたい」と考えていた両親、とくに母は結婚に大反対だった。

「寿司屋の苦労は知ってたから、私も本当はサラリーマンと結婚するつもりだった。でも、それまで恋愛らしい恋愛をしてこなかったから、だまされちゃったのね(笑)」

25歳で結婚。ところが、その1年前から、体に異変が生じ始める。

「急に、たびたびぎっくり腰になるようになって。病院で診てもらったら、生まれつき重度の脊柱側彎症だったことがわかったんです」

それまでは、ゆがんだ体を海で鍛えた筋肉が支えてくれていた。サーフィンをやめ陸に上がったことで突如、病いが表面化したのだ。

「医者からは『背中を開いて背骨をネジやフック、棒で真っすぐに矯正する手術がある』と言われました。でも、半年間は寝たきりと」

結婚式が目前だった笈川さんは手術を回避。別の治療法を探した。

「ちょうどカイロプラクティックが日本に入ってきて。『これだ』と思い通ったんです。でも、カイロの先生からは『1~2年じゃ治らないよ』と念を押されました」

激痛を伴う治療を毎週のように続けたが、症状はなかなか改善しなかった。それでも、痛みをごまかしながら結婚生活を送り、2人の子宝にも恵まれた。

「でもね、体が痛くて赤ちゃんを抱くこともできない。ひどいときは朝、寝床から自力で起き上がることもできないありさまでした」

もともと職人かたぎの夫。

自分の稼ぎの多くが妻の治療代に消えていくことにストレスを感じていたのか、最低限の生活費だけを置くと、だんだんと家に寄りつかなくなっていった。笈川さんは痛みを押して1人、子育てに奮闘したが、生活は長い間、苦しかった。

「実家を頼ろうともしたけれど。『お前が好きで選んだ人生、貧乏長屋の女将として踏ん張りな』と父に言われてしまって」

当時の住まいは6畳2間の風呂なしアパート。何不自由ない子供時代を過ごした笈川さんが、銭湯代にも窮するようになっていた。

「お恥ずかしい話ですが、お湯を張った洗濯機を湯船に見立て、子供たちを入れたこともありました」

自分は食べたつもりで食事を抜き、そのぶん、子供に少しでも食べさせる、そんな日々が続いた。

「長女のこと、本当は幼稚園の年少さんから入れてあげたかったんです。でも、私が送り迎えできる体じゃなかったから諦めて。それで彼女が5歳のとき、何か習い事をさせてあげようと。すると本人、『踊りを習いたい』と言うので、私が幼いころに通った先生のところに、頭を下げに行ったんです。

すると先生は開口一番『どうしちゃったの!?』って。あまりに痩せ細った私を見て『このコ、死ぬんじゃないか』と思ったそうです」

ふびんに思った先生は「私を手伝わない?」と声をかけてくれた。

「それで私、久しぶりに踊るようになって。でも助かりました。先生の手伝いをすることで娘の月謝を免除してもらえたうえ、少額でしたけど毎月、アルバイト代も。生活費の足しにできましたから」

ふたたび踊り始めると、笈川さんの体調は少しずつ上向いていった。稽古で筋力がアップしたことで腰痛が癒え、いつしか、自力で寝起きもできるようになっていた。

■42歳のときに猿若流に入門。情けなくて悔し涙に、歯を食いしばって稽古を続けた

「体が回復してきて少し自信がついたので、先生のもとを離れて、個人で踊りを教え始めました」

40代になる少し前。週1回、近所に場所を借りて教室を開いた。ちょうど同じころ、厳しく育ててくれた父が他界してしまう。

「残された母の提案で、実家を建て替え、同居することになって。ついでに、家に稽古場も作ったんです。すると母が、言うんです。私に稽古場を持たせるのが、父の最後の夢だったと。それを聞いて思い浮かんだのが『始めたからには結果を出せ』という父の言葉。父が望んだように、私は踊りの先生に。この稽古場で開く教室が結果の1つかなって思いましたね」

ところが、ここでまた問題が発生する。笈川さんの師匠が、踊りの流派を破門されてしまうのだ。

「ゴタゴタに巻き込まれ、私の弟子のほとんどもやめてしまって。私、つくづく踊りの世界に嫌気がさして、扇子を置こうと思いました。でも、2人だけ残った弟子から『先生にずっとついていきます』と言われ、困っちゃいましてね」

人に教えるには自分自身、常に学んでいかなくてはならないと考えた笈川さんは、つてを頼り新たな師を探した。そしてたどり着いたのが、猿若会主宰で紫綬褒章も受章した名人・猿若清方だった。

「大先生のところにうかがって、こちらの事情を説明したんです。すると大先生は『過去の話は必要ない。この先、本気で芸を習おうと思うなら僕のところに来なさい』、そう言ってくださって」

こうして、笈川さんは猿若流に入門。42歳のときだった。

「でも、大先生の稽古は心身ともにキツかったですよ。やることなすこと、ダメ出しばかりで、最初の3カ月はずっと泣いてました」 猿若流の踊りは、これまで学んできたものと、まるで違っていた。

「猿若は動きも振りも大きく力強い。筋力も必要です。『そんなチマチマした踊り方じゃダメだ。うちの踊りに、そんな無駄足はいらないんだ!』とよく怒鳴られました」 さらに、容赦ない言葉も浴びた。

「あなたは体を壊し、つらい思いをしてきたと言うけれど、幼いときから正しく踊ってさえいれば、体のゆがみなんて出るわけないんだ!」

自分の半生がまるで無駄足だったと言われた気がした。毎回、稽古のあとには悔し涙があふれた。

「情けなくて。40年近く何やってきたんだろうって。遊び半分で踊りをやってきた、これが報いだと」

それでも歯を食いしばって、サーフィンにも劣らないハードな稽古に励んだ。すると、およそ1年後には異例の早さで名取に。「猿若清紫惠」という名前をいただいた。そして’01年には師範にも。

「驚いたのはね、師範になったころだったかな、病院でレントゲンを撮ったの。そうしたら、側彎症がほとんど治ってた。大先生のハードな稽古と、教わった正しい踊り方で鍛えられた筋肉が、骨のゆがみを矯正してくれていたんです」

■ビッグウェーブに年齢は関係ない。夢にまで見た海に戻ってきた。

それでも60代を迎えるころになると、膝や腰に痛みを覚えるように。そこで笈川さんは、67歳のころから健康維持のため、ずっと踊り続けるため、長男にすすめられたスポーツサイクルに挑戦した。

「最初は転んでばかり。でも、だんだん乗れるようになって楽しくなってきて。すると、どうしても気になるものが出てきちゃって」

じつは、もうその何年も前から、笈川さんはサーフィンの夢ばかり見るようになっていたのだ。

「波に乗ってる夢も見ましたけど、多くはね、あちこち波のある海岸を探したり、沖で波待ちしていたり。そうそう、昔よく通ったサーフショップに行きたいのに、場所がわからなくなってる夢も。だからね、私、ずっとサーフィンやりたかったんだなって、そう思って」

68歳の夏。偶然、湘南を通りかかった笈川さんは、思い切ってゴッデスのショップに立ち寄った。

「そこで、社長の顔を見たり、並んでる板やウエットスーツを眺めてたら、やっぱり私、また波に乗りたい、そう思ったんです」

鈴木さんはこう言った。

「70歳を過ぎてサーフィンをやってる男性は、僕のほかに何人もいます。でも、女性は見たことない。笈川さんが最高齢女性サーファー? それは間違いないよ」

日本のサーフィン文化の礎を築いた第一人者からこう言われて、笈川さんは照れ笑いを浮かべていた。キャップからのぞくぬれた髪には、白いものも目立つ。

「年寄りの冷や水だって笑われちゃうんだけどね。でも、やっぱり波の上で板に立って、その板が海面を滑り始める、その瞬間の気持ちよさっていったらもう……、やめられなくなっちゃうのよ(笑)」

こう言って笑った笈川さんは、最後にこう言い添えた。

「あのとき、プロ目指してサーフィンを続けなかったことの後悔は、ないとは言えない。でも、あそこで結婚を選んだから最愛の子供たちと出会えた。猿若の踊りにめぐり合って体を鍛えたおかげで、この年でも波乗りが楽しめる。だからね、海に戻るまでの歳月も、決して無駄足なんかじゃなかったと、いまではそう思えるんですよ」

晴れやかな顔でそう言い残すと、最高齢の女性サーファーはもう一度、波を求め海に向かった。

編集部おすすめ