「ここはゴンちゃんが運営に携わっているお店です。僕の実家のとんかつ店があるのもすぐ近くの歌舞伎町、彼女と初めて一緒に暮らしたのも、この近所でしたね」

杉山文野さん(40)がそう語りだしたところで、彼が注文したホットジンジャーが運ばれてきた。

6色のレインボーカラーのマスクを外すと、精悍な髭面が現れる。6色レインボーは、LGBTQ+(性的少数者の総称)の象徴だ。

杉山さんも、女性として生まれたトランスジェンダーだ。LGBTQ+のリーダー的存在で、日本初の「同性パートナーシップ制度」(東京都渋谷区)制定に関わり、現在も渋谷区男女平等・多様性社会推進会議委員を務めている。

戸籍上は女性のまま、女性のパートナーと事実婚をし、ゲイの友人であるゴンちゃんから精子提供を受けて、パートナーが出産。2人の子どものパパになった。

現在は杉山さんとパートナーの彼女、そしてゴンちゃんの3人で、子育てをしている。

その経緯や生活ぶりをつづった著書『元女子高生、パパになる』(文藝春秋・20年)、『3人で親になってみた』(毎日新聞出版・21年)も出版され、話題になった。

杉山さんがインタビュー場所に指定した「新宿ダイアログ」は、東京・新宿3丁目にあった。日本有数のゲイタウン、新宿2丁目もすぐそこだ。

ふと遠い目になった杉山さん。

「中学生のころ、まだ自分が何者かわからないときに、深夜番組『トゥナイト2』で“おなべバー”特集を見て。

『ああ、自分はこれかもしれない』と、翌日には自転車で、このあたりを走っていました。何か手掛かりがあるんじゃないか、と。でも、昼間の新宿2丁目なんて、ただの通り。何もわからなくて(苦笑)」

トランスジェンダーとは、出生時に割り当てられた性別(戸籍上の性別)とは異なる性自認を持つ人のこと。81年8月10日、次女として生まれた杉山さんは、生まれたときから性別に違和感を持っていた。

「幼稚園の入園式のとき、スカートをはかされて。

イヤだ、イヤだと大泣きして逃げ回っていましたから。女装というより、女体スーツを着せられている感覚ですね」

幼いころから活発で、スポーツは得意。しかし、2歳から始めた水泳も、水着になった時点で耐えられなくなり、姉と一緒に通うことになったバレエもレオタードがイヤで、早々に断念している。唯一、続けられたのが10歳で始めたフェンシング。ユニホームに男女差がなかったからだ。

「トランスジェンダーでも、僕みたいな女から男のタイプは、『ボーイッシュ』『おてんば』と言われて、ネガティブに捉えられない。

僕も『スポーツをやっているから』と、短髪でいられたし、一人称も体育会系を装って『わたし』ではなく『自分』と言っていました。

でも、いつかおちんちんが生えてくると、リアルに信じていたんです。大人になると男になるんだと本当に思っていたんですよ」

わずかな希望が打ち砕かれたのが初潮だ。小6のときだった。

「やっぱり違ったんだ、と。自分の体が女なんだという現実を突きつけられて、大きなショックでしたね」

■乳房切除の決意を。

父は「文野以上に文野のことを考えている人はいないんで」

「いちばん苦しかったのは、やっぱり中学から高校にかけて。二次性徴が始まって、体は女性として成長していく一方で、男性的な自我が強くなっていく。引き裂かれるような感じで、頭がおかしいんじゃないか、こんな人間はほかにいないなどと根拠のない罪悪感で自分を責め続けていました」

幼稚園から高校まで、日本女子大学の附属校に通った杉山さんは、宝塚的な憧れの先輩。女子生徒にかなりモテた。中3のときには、彼女もできた。それでも、常に葛藤があった。

「誰にも相談できず、バレてはいけないという思いで、外では明るい先輩を気取りながら、家では一人で泣いているみたいな……。

大人になった自分なんて全く想像がつかないから、僕はずっと30歳で死のうと思っていました」

新宿2丁目のおなべバーを探しに行ったのは、そんなころだ。実家は、とんかつ茶づけで有名な老舗「すずや」。店には、歌舞伎町という場所柄もあってさまざまな職業の人が集まってくる。LGBTQ+の人もいたはずだ。

それでも、わが子がとなると、話はそう簡単ではない。

「母には中3のときにバレちゃいまして。最初は目も合わせてもらえなくて。でも、母は自分を責めていたんです。育て方が悪かったとか、女子校に入れたのが間違いだったんじゃないか、とか」

高3のころには父にもカミングアウト。穏やかな性格の父は、

「いいんじゃないか。病気ではないんだから」という反応だった。

母も、自分なりに調べて、大学3年のころには理解してくれた。

「文野は文野。私の子どもに変わりないってわかったわ」

フェンシングの推薦で早稲田大学教育学部に進学し、セクシュアリティや人権について学び、大学院まで進んだ。フェンシングでは、日本代表選手にも選ばれた。

それでも、杉山さんのなかの死にたい気持ちは変わらなかった。

「日本代表はうれしいけど、同時に、女子の部かみたいな落胆もある。たとえば彼女とのセックスでも、気持ちがいいという体の感覚と同時に、自分の体は男性じゃないという現実を突きつけられる。快感の瞬間が、苦痛でもある。そんなふうに常に肯定と否定、両方がつきまとうんです」

代表入り後はケガが続き、05年、選手を引退。性同一性障害特例法が施行されたのは、その前年だ。性別適合手術を受けるなどの条件をクリアすれば、戸籍上の性別を変えることが可能となった。

杉山さんは悩んだ。手術を受けようか。しかし、親からもらった体を傷つけることは躊躇われた。そんなころ、車いすで移動中の乙武洋匡さんと明治通りでバッタリ出会い、乙武さんの後押しもあって、06年、性同一性障害の当事者として、自叙伝『ダブルハッピネス』(講談社)を出版する。

公にカミングアウトした形になった杉山さんのもとには、全国からさまざまな反響が届いた。「勇気をもらいました」という肯定的なものもあったが、「助けて」「死にたい」など、25歳では抱えきれないものも多かった。

「で、疲れ果てて逃げるように、海外に行ったという感じです」

2年間、バックパッカーで世界約50カ国と南極をめぐる旅をした。

「自分探しの旅でした。LGBTQ+を当たり前に受け入れてくれる場所もあり、気持ちが軽くなっていくなかで、気づいたんです。たとえ世界中の人が認めてくれても、たった一人だけ受け入れられない人がいる。それは自分だ、と」

入浴のたびに、鏡に映る自分の乳房に呆然とする自分がいる。

「おまえは誰だ? という感覚が拭えない。結局、僕がひっかかっているのは、性別であり、体だったんです」

乳房切除をする決意が固まった。手術のために、バンコクへ渡る。このころ、テレビの取材を受けた父親の言葉は忘れられない。

「手術するくらいなら、漢方では治らないんですかね」

と、とんちんかんな“迷言”を吐きながら、最後にはこう言ってくれたのだ。

「親として手術は心配ですが、文野以上に文野のことを考えている人はいないんで」

27歳になっていた。翌年からホルモン注射も打ち始め、大手外食系企業に就職。3年間勤めた。

「これが、どブラックな企業で(苦笑)。周囲はどんどん辞めていくなかで、気がついたら、僕は、これまでずっと僕を支配してきた性別のことより、誰にでもある仕事のことで悩んでいた。そのとき、あ、僕のステージが変わってきたなというのがありましたね」

■養子縁組の申請が通って。パパから「養母」となって、3人とも法律上の親になる

冒頭の通り、杉山さんは現在、子育ての真っ最中。3人親の育児が、また新たなステージを迎えようとしている。

「実は、僕と子どもたちの養子縁組の申請が先日、通ったんですよ。

これまでは産んだ彼女が『実母』、ゴンちゃんは認知をして『実父』ですが、僕は、赤の他人のままでした。そこで、養子縁組をすることで、僕が『養母』になり、3人とも、法律上の親になることができたわけです」

さらに4月から、杉山さんは一家で長野に移住するという。

「彼女の両親の家が長野にあって、彼女は小さいときからご両親と東京と長野を行き来する生活でした。コロナ禍で、東京で保育園に行けないときは、一時期長野で生活しており、自然もあるし、『子どもは長野で育てたいね』ということになって」

今度は、杉山さんが東京と長野を行き来する生活になるという。

「ゴンちゃんはどう関わるのか。それもまた、生活しながら考えていくけど、長野とゴンちゃんの実家金沢は北陸新幹線で近くなるので、新しい可能性も膨らんでいます」

子育ては常に試行錯誤。そのときそのときの家族の状況で、臨機応変に形を変える。それはどんな家庭でも変わらない。

子どもたちの成長とともに気づくことも増えてきた。

「不思議ですよね。同じ環境で育っても、子どもたちの性格は正反対。(長女の)あるはすごい激しくて、(長男の)きのは穏やかでいつもニコニコ。同じときの受精卵ですが『きのは1年の凍結保存で熟成されて、マイルドになったのかな?』なんて冗談を言ったり(笑)」

生まれ持った個性を大切にしたい。それが自己肯定感を持てずに苦しんだ杉山さんの願いだ。

「この間、水着を買いに行ったら、あるがピンクのフリフリのを『これ、欲しい』と持ってきた。僕は『えっ、これ?』と思いつつ、女のコはこういうのが好きなんだなぁと思ったら、次の瞬間、ショベルカーのおもちゃも欲しい、と言われて、また戸惑って。

だから、僕のなかにも、刷り込まれたジェンダーバイアスがあるんです。女のコはこう、男のコはこうと決めつけず、選択肢を多くして、自分で選ぶようにさせてあげようと思っています」

取材を終え、自転車にまたがって颯爽と走り去るパパの背中が頼もしかったーー。