住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、毎週ドキドキしながら見たドラマの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「’77年、14歳で歌手デビューしましたが、20代の初めにかけて、自分の歌いたい曲と事務所が歌わせたい音楽がかみ合わないことに苦しんだし、“歌が売れないから女優をやる”という仕事のやり方にも悩んだりして……。’80年代前半までは闇の時代。でも『金曜日の妻たちへ2 男たちよ、元気かい?』(’84年)や、同じ放送枠の『金曜日には花を買って』(’86~’87年・ともにTBS系)に出演したころから、ちょっとずつ闇が晴れてきたんです」

こう振り返るのは、香坂みゆきさん(59)。3歳のある日、横浜のデパートでモデル事務所にスカウトされたのが、芸能界に入る足掛かりになったという。

「最初はお小遣い稼ぎが目的でした。当時、ギャラは事務所に行って直接、封筒に入った現金をほんの数千円もらっていたのですが、その帰り道、母にデパートの大食堂に連れていってもらい、クリームソーダとかプリンアラモードを食べるのが楽しみでした」

テレビCMや学年誌の表紙モデルの仕事をしていた’75年、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(’75~’80年・フジテレビ系)のマスコットガールに抜擢され、その後、大手プロダクションであるサンミュージックへ移籍。

「それほど歌のレッスンができないまま、『愛の芽ばえ』(’77年)で歌手デビューしました。初めてドーナツ盤のレコードを手にしたときの感動は忘れません」

世はアイドルブームの黎明期。アットホームな所属事務所では、タレントとスタッフが一緒になってぶどう狩りをしたり、伊豆の民宿へ海水浴に出かけたりしていた。

「同じサンミュージック所属の(松田)聖子さんが’80年にデビューしてからは、事務所の雰囲気も慌ただしくなりました。人気ぶりが別格でしたから」

■心の闇を晴らした“金妻”との出会い

いっぽうの香坂さんは、ちょうどこのころから“闇の時代”を迎えることになったという。

「自分の思いが反映されていない曲でも、歌って、売らなきゃいけないことが苦しくなって……」

同世代の太川陽介が事務所内のポップス班に配属されたためか、同じくポップスを歌う香坂さんは演歌班に。

「演歌の大先生の前座で歌う機会があったのですが、私は8ビートの曲を歌うから、会場に来たおばあちゃんに『音がうるさい』って言われてしまったり。地方営業も苦手でした。デパートの屋上などで歌った後、レコードを手売りするのですが、買ってくれるのは、いつも見にきてくれる10人くらいのファンだけ。それなのに、遠巻きに見ている人に向かってスタッフが、『ほかに誰か(買ってくれる人は)いませんかー!』って懸命に大声で呼びかけるんです。もう身が縮まるような思いで、“いないから、早く帰らせてよ”って、心の中で訴えていました」

芸能の仕事を始めた子どものころからずっと、お金のことは親が管理。歌手デビューした後も、自分がいくら稼いでいるのか、知らなかったと香坂さん。

「親の教育だと思うのですが、“普通の女の子でいなくてはならない、芸能界に染まってはいけない”という思いがあって、必要以上に高い買い物もしませんでした」

何のために働いているのか、目標すら見えなくなってきたこともあるだろう。心の闇がどんどん深くなっていったころ、香坂さんは“金妻”“金花”と出合う。

「共演させていただいた篠(ひろ子)さんがすごくカッコよくて。マネージャーさんもいましたが、帰りはいつも1人で、BMWをダーッと走らせて、帰るんです。それまでは、たくさんのスタッフに囲まれた歌い手さんしか見てこなかったから、1人で行動する女優さんの姿を見て“カッコいい”って憧れました」

香坂さんも1人で行動することが多くなったという。

「当時はカーナビがないので、ロケ現場の近くまで、まずは大きな(広域)地図を見て行くんです。

そこから先はスタッフ手描きの地図が頼りなのですが、いいかげんなことが多くて、遅刻しそうになることもしょっちゅう」

■人生で“いちばん芸能人してる!”と思えた『ニュアンスしましょ』の撮影

撮影現場は楽しいものだった。“金妻”といえば、プロ野球選手だった板東英二が、初めて役者に挑戦した作品だ。

「板東さんは自分のセリフしか覚えてこないので、セリフのタイミングを逃すんです。私が足を突いたりして、やっと『せやなぁ』としゃべりだす感じで(笑)」

“金妻”では、伊武雅刀演じる妻のいる上司に、ちょっかいを出す役を演じた。

「だから初めて会う人から『もっとアンニュイな人かと思った』『とっつきにくいというか、怖いイメージでした』と言われていました」

それだけリアリティがあるドラマだったということだろう。その後、2時間ドラマなどへの出演が増え、女優仲間もたくさんできたという。

「稼ぎを知らなかったことも相談して、アドバイスをもらい、自分で事務所とお金の話もできるようになりました。“欲しかったら、いいじゃん”って吹っ切れて、高価なバッグなども買えるようになり、経済面でもやっと自立できたと思います」

同時期には作詞・大貫妙子、作曲・EPOのシングル『ニュアンスしましょ』(’84年)が大ヒット。

「私にとって“唯一の売れた曲”です(笑)。それまでは、自前のヘアメークで、衣装も自分で安いのを買って、歌っていました。でも『ニュアンスしましょ』は資生堂のキャンペーンソングだったので、メークさんもスタイリストさんも資生堂さんが手配してくださって。私の芸能人生のなかで“いちばん芸能人してる!”って感じられた瞬間でした」

闇が続いた10代後半だったが、ようやく晴れ間が見えるようになった。

「自信も芽生え、この世界でやっていけると、やっと思えるようになりました」

’80年代に葛藤を味わったからこそ、今年の4月21日、歌手デビュー45周年を迎えることができたのだろう。

「いまのところ1年限定の予定ですが、YouTube、インスタ、TikTokなどで、’70~’80年代の懐かしくて大好きな曲をお届けしたいと思っています」

【PROFILE】

香坂みゆき

’63年、神奈川県生まれ。3歳でモデルを始め、’77年、14歳のときに『愛の芽ばえ』で歌手デビュー。以降、ドラマ、映画、舞台、CMなど幅広く活躍。5月29日には「ケントス銀座」にて、早見優と昭和歌謡をメインにしたライブを開催

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