「ああ、間に合わなかったなあ。もうちょっと、早かったらなあ……という思いでした。

まだコンサートが決まる前で、とうとう父に言えずじまいだったんです」

こう語るのは南野陽子(55)。

’85年にドラマ『時をかける少女』でデビューして以降、『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』(’85年)や映画『はいからさんが通る』(’87年)などで主演し、トップアイドルとして一世を風靡。近年もNHK大河ドラマ西郷どん』、『半沢直樹』(TBS系・’20年)といった数々の話題作に出演している。

’85年には歌手デビューも果たし、『楽園のDoor』『吐息でネット』などでオリコンシングルチャート8作連続1位を記録。’16年には約25年ぶりとなるソロコンサートを行い、大きな話題を呼んでいた。

そんな南野には、ある大舞台が控えている。

自身初となるオーケストラとのコラボコンサート「南野陽子・初めてのフィルハーモニー大音楽会」を8月15日に東京オペラシティ、28日にロームシアター京都で開催するのだ。

6年ぶりのコンサートに向けて準備に励む南野だが、実はプライベートで大きな別れを経験していた。

5月末、最愛の父が85歳で亡くなっていたのだ。

「ここ数年は就寝も早く、『半沢直樹』や『西郷どん』も見られませんでした。お芝居の公演も、トイレが近くて楽しめない。でも、コロナ禍がすこし収まり施設から出られれば、大好きなクラシックを、私のコンサートで楽しんでほしいと思っていたんですが……」

失意をみせまいと努めて微笑む南野。

母を病気で失ってから、10年以上にわたって仕事のかたわら父を介護してきた。

「’11年11月、私が44歳のときに、母が68歳で心臓弁膜症で亡くなりました。それで、父は実家で独り暮らしになり、気持ちが落ち込んでいるときに頸椎の具合も悪化して、歩行困難になってしまったんです」

75歳と後期高齢者となる父を、単身で兵庫県の実家に住まわせ続けるわけにはいかない。そう思った南野は「東京で仕事をしながら、父と暮らせる方法はないか」と思案した。

「箱根の、温泉にゆっくり入れる高齢者介護施設に入居してもらうことにしました。月に4、5日、私の家に外泊させることで、すこしでも多く父と一緒にいられると思ったんです」

自立歩行が難しい父のためとはいえ、多忙な女優が、月に4、5日も父との日々に充てるだけでも、大変なやりくりと努力が必要なはずだ。

ところが南野は、父が施設にいる日も仕事の合間をぬっては訪ね、時間をともにしてきた。しかし、父娘という関係ゆえにうまくいかないことも。

「そんな生活を2年ほどしたころ、父は毎日、下着を汚してしまうようになっていました。私が大人用おむつを買ってきて、『お父さん、これって便利なんだよ』とさり気なく勧めても聞かないんです。娘の前で恥ずかしいという、父親の威厳もあったでしょう……」

父とレストランに行くときは、車椅子のシートにも工夫を施した。

「粗相しても吸収できるシーツをつけたんですが、シーツが外から見えると嫌だろうから、バスタオルを縫って、上から座布団を被せたんです。

そうして着替えの衣類を持って、出かけました」

だが父は施設のタイムスケジュールとすこし違うだけでも、リズムが狂ってしまう。

「不意に粗相してしまったりして、二度と行きづらくなっちゃったお店もありました」

南野の説得にも、父はおむつを受け入れてくれない。だから特製のパット付き車椅子を用意しても、それもうまくいかない……。

「お父さん、これくらい、わかってくれてもいいでしょ?」と南野がちょっと声を荒げれば、父は父で娘に負けてはいられず、「わしが先に逝くとは限らんからな!」と憎まれ口。すると娘の南野も腹に据えかねて、負けじと言い返す。

そんなやり取りを経て、数年前にやっと父もおむつを受け入れてくれるように。

「私は子育て経験がありませんが、父と向き合った10年間、疲れたけれど、より父が好きになりました。年を取るって、現代人は70代くらいまでは元気で、気持ちも上向きでいられる人もいるけれど、80代になって、命の終い時期の5年くらい前になると“子ども返り”するんだなって。特におむつを受け入れてくれるころからは、“お父さんイヤイヤ期”に入ったり、赤ちゃんみたいな笑顔で食事したり」

そう思い起こすように笑顔をみせる南野。どうして父親と向き合うことにそこまで一生懸命になれたのか? と問うと、懐かしそうな目をして答えた。

「幼いころ、父からは挨拶や言葉遣いを躾けられました。なかなか眠れない私の枕元で、『太郎と花子』の創作話をして寝付かせてくれたのも父だった。

もうすこし大きくなってからは、神戸に車でドライブに連れて行ってくれて、父とふたりで映画を観て、プリンアラモードを食べて、ぬいぐるみを買ってもらって……」

それほど手塩にかけてくれた父にも、反抗期に八つ当たりすることもあったという。

「乱暴な言葉を私が言えば、すぐ『謝りなさい、陽子!』と、つかまえて叱ってくれました」

さらにデビュー後、21歳の人気絶頂期に南野が独立すると、会社員だった父は後に退職して、個人事務所社長として経営面でサポートしてくれたが、ときには心ない批判も……。

「みなさんの前に出たこともないのに、父を『ステージパパ』と書き、酷い記事ばかり目立った。報道への耐性がない父はすっかりメンタルが傷ついて、倒れてしまいましたが、それでも私を守ろうとしてくれた。申し訳ない思いでした」

そんなことを思い返すたび、父に向き合う気持ちを新たにする南野だが、’20年から猛威を振るったコロナ禍が、父娘の心の通じ合いを阻んだ。

「2年半、まともに会えない年月が続きました。施設でもガラス越しにしか会えず、顔を見合っていても会話は携帯電話越し。それでも最近は調子がよさそうで、『6月の誕生日にはご飯を食べに行けるといいね』と、そう話していたのに……」

そんななか、今年5月のGW明けに事態は急変する。南野に施設から「朝から呼吸が苦しい状態で、病院に向かいます」と電話が。肺にはすでに水がたまっていて、入院した病院では、それを抜く処置がなされた。「父は一進一退で頑張っていました」と南野が、最後の日々の様子を明かす。

「病院からの電話連絡で、父の状態を確かめる日々でした。『今日はお話しができましたよ』とか『今日は眠っていて……』という報に一喜一憂して」

最後は朝4時ごろの電話を受け病院に駆けつけたが、到着と同時に臨終の確認となった。

「やっと快方に向かうと思っていた矢先でした。いろいろな思いがありましたが、『いまのうちに父の身体に触れておこう』と思い、抱きしめました。幼いころ以来のことでした」

それから49日も経っていない。自宅のリビングのサイドボード上には、11年前に亡くなった母の遺影と並んで父の遺影が立てかけられ、お骨も置かれている。

「毎日、『おはよう』『ただいま』と日に2、3度は、手を合わせています」

’11年に母が急逝した際は、取り乱しては泣き、「何年も抜け出せなかった」南野だが、今回は思いのほか、落ち着いていると言う。

「55歳にもなれば、慣れるというか、生き死にへの思いも変わってきます。コロナ禍以降、父と会ってもガラス越しで、すぐ帰らなければならず、施設でひとりでかわいそうでした。

いまは天国で、母と一緒にいるかと思うと、不謹慎に思われるかもしれませんが、父にとっては、よかったのではないかとさえ思うんです」

その父が好んだクラシックの名曲がフルオーケストラで演奏されるのが、8月に控えている南野のコンサート。南野が込める思いにも、格別なものがあるようだ。

「’88年のシングル『吐息でネット』など、若いころとは同じようにはいかないかもしれないけれど、楽しんでもらえるなら歌いたいと、いまは思う。うまくいかないことも、失敗もデコボコもあるかもしれないけど、自分と向き合う姿をみせたい。お手本にならないかもしれませんが、南野陽子という“ある見本”は見せられるのかな」

両親を看取ったいま、すこし達観した南野もいる。

「人はみな、『生きてこそ』です。死んでしまえば、人々にだんだん思い出されなくなり、残らないと思う。だから私はできることを精一杯やります。’80年代の曲も、いまの私が歌うから、いまのお客さんが聴いてくれる。懐かしんでくれる昔からのファンの方もいれば、『これからどうして生きて行こうか!』って考えてくれる方もいるかもしれませんから」

(取材・文:鈴木利宗)