10月1日、元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木さんが亡くなった。79歳だった。

猪木さんは20年7月に難病「心アミロイドーシス」を患っていることを公表し、闘病を続けていた。各スポーツ紙によると2、3日前から低血糖で体調を崩し、同日に都内の自宅で心不全のため息を引き取ったという。

昨年3月にはYouTube動画で、「最強の敵と闘っています」と病床でリハビリに励む姿を公開し話題を呼んだ猪木さん。その後も、TwitterやYouTubeを通じた発信や、メディア出演など活動を続けてきた。

そんな猪木さんが最後にテレビ出演したのは、8月28日に放送された『24時間テレビ 45』(日本テレビ系)。メインパーソナリティーの二宮和也(39)に車いすを押されながら両国国技館のステージに登場し、「元気ですかー!? 元気があれば何でもできる!」と呼びかけていた。

猪木さんの訃報に、プロレス界からは別れを惜しむ声が相次いでいる。

猪木さんの付き人を務めたこともある藤波辰爾(68)はTwitterを更新し、《16歳で出会い68歳になった今でもあなたは私のヒーローです。生まれ変わってもまた、あなたの側に。あなたの記憶を胸に今日もリングに上がってきます。心からの感謝と愛と哀悼の意を捧げます。本当にご苦労様でした。

どうかどうか安らかにお休みください。ありがとうございました》と綴った。

猪木さんを師匠として慕った長州力(70)も、《やっと解放されましまね。リングを降りても貴方は闘魂アントニオ猪木でした まさに闘魂そのものでした。猪木さんどうか安らかにお休みになって下さい。私の中での昭和のプロレス時代はこれで終わりたいと思いますが、まだ藤波辰爾選手が頑張ってます最後まで見届けます》とTwitterで偲んだ。

■「どうせ死ぬなら、私らしく『闘って死にたい』」

多くの人々から愛された猪木さん。いっぽうで、その人生は波瀾万丈の連続だった。

「猪木さんは5歳になる直前に父が急死。13歳で家族とブラジルに渡り、コーヒー農園や青果市場で働いていました。現地の陸上競技大会の円盤投げで優勝した際、同国に遠征中だった力道山さん(享年39)にスカウトされプロレスの道へと進むことに。76年6月にはモハメド・アリ(享年74)との『異種格闘技戦』が日本武道館で実現し、世界中に猪木さんの名が知れ渡ったのです。

以後、猪木さんが立ち上げた新日本プロレスは人気を博しましたが、その陰では個人事業の失敗で数十億ともいわれる負債を抱えたことも。さらに全盛期だった39歳のときに重度の糖尿病と診断され、88年には当時の妻だった倍賞美津子さん(75)とも離婚しました」(スポーツ紙記者)

猪木さんは本誌20年10月27日号に登場した際、様々な苦労が重なった80年代の一時期を振り返り「自殺しよう、死ねばいいと思うほど追い詰められていた」と語っていた。しかし、持ち前の不屈の精神で立ち上がったのだった。

「人生、一度や二度は『死にたい』『死のう』と誰でも思うのではないか。現実の苦しみに疲れ果てていた私は、借金や人間関係などの煩わしいことから逃げたかった。しかし、死ぬエネルギーがあるのなら、まだ生きられる。

どうせ死ぬなら、私らしく『闘って死にたい』と思い至ったんです」(猪木さん)

また、自らの最期についても、「お迎えが来たら、潔く旅立とうとは思っているんですが……年を取ろうが、体が弱くなろうが、チャレンジし続けることこそ人生。それが“燃える闘魂”なんです」と前向きな姿勢を見せていた。

猪木さんが残した“燃える闘魂”は、これからも多くの人々に受け継がれることだろう。