2022年10月に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんの「最も信頼した弟子」として知られるプロレスラーの藤原喜明。猪木さんの死以降、口を閉ざし続けてきた藤原の独白をまとめた『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社)には、猪木さんとの秘話と愛憎のすべてがまとめられている。
新日プロ草創期、異種格闘技戦、UWFと新日への出戻り、引退、そして死に秘められた真実までをつづった同書から、佐山聡との対談シーンを一部抜粋して紹介する。

■70年代の新日本は猪木を頂点にした家族

 アントニオ猪木の“最も優秀な付き人”だった藤原と佐山。猪木に強い影響を受けた2人に、対談の最後、今は亡き師への想いを語ってもらった。

──お二人は、晩年の寝たきりになっていた猪木さんをご覧になられてどんな思いがありましたか?

【藤原】ユーチューブで弱った姿を見せることに対しては賛否両論あったと思うけど、俺は体が弱って寝たきりになっても「そうはいくかい!」っていう姿を発信し続けたっていうのは素晴らしいと思ってるよ。

【佐山】僕は直接会ってないからわからないです。こっちも病気で大変でしたからね。
亡くなる2週間前に(弟の)啓介さんを通じて猪木さんと電話で話す機会があったんですよ。その時、「お前、来ないか?」って言われたので、「今、病気なんで、ちょっと待っててください。体調がよくなったら、すぐに行きますから」っていう話をしたんだけど、会いに行けないままお亡くなりになってしまいました。

【藤原】無理してでも会いに行っておくべきだったよな。俺が最後に会ったのは、亡くなる1年前だったんだよ。その時、俺も猪木さんに「たまには遊びに来いよ」って言われたんで「はい」って答えたけど、なかなか行けねえよな。


【佐山】最後にお会いすることはできなかったけど、4~5年前に一緒に食事をした時、猪木さんに「あなたに会えて僕の人生は幸せでした」って言ったの。そしたら猪木会長は、「うん、そうか」って、にっこり笑ってくれてね。もう僕は、その言葉を伝えられたから、思い残すことはないんだよね。

──最後に会えなかったけれど、自分がいちばん伝えたいことは、ちゃんと直接伝えることができたわけですね。

【佐山】お父さんにも言っておこうかな。「あなたに会えて幸せでした」(笑)。


【藤原】えっ、俺? なんか俺がもうすぐ死ぬみてえじゃねえか!(笑)。でも、今日はずっと楽しみにしてたんだ。会えてよかったよ。

【佐山】僕も体調的にどうかなと思ってたんだけど、ちょっと悪くても行かなきゃって。

【藤原】不思議なもんで、俺たちは気持ちでは昔のまんまなんだよ。一緒に新日本の道場で練習していた40年前と同じなんだ。


【佐山】懐かしいなあ。新日本の道場で練習をやってた光景がまだ頭に浮かびますよ。

【藤原】そうだよな。夏になったらクソ暑くて、それなのに窓を閉め切って練習してな。45~50度だよ。

──70年代の新日本は、猪木さんを頂点にした大きな家族みたいだったんでしょうね。


【藤原】みんな家族だよな。猪木さんが頂点にいて、その次が佐山、その次あたりが前田かな。俺はずっと下だよ(笑)。

【佐山】そんなことはないよ。裏ではナンバーワンだったんだから(笑)。

【藤原】“裏”ってどういう意味だよ(笑)。
猪木さんは、みんなの親同然だったけど、親が先に亡くなるっていうのは避けられないことなんだよ。俺も猪木さんが亡くなる1年ぐらい前から「もう長くはないだろうな」と思ってたんで、電話が鳴るたびにドキッとしてたからね。その報せじゃねえかって。だから10月1日の朝も電話が鳴って「亡くなりました」って言われた時も、「ああ、逝っちゃったか……」と。心の準備ができていたから受け止めることができたよ。

──佐山さんは、4代目タイガーマスクからの電話で知らされたんですよね。

【佐山】そうですね。聞いた時はショックでちょっと記憶が飛んでるんですよ。それで葬儀の時に啓介さんと会ってね。猪木さんの晩年、僕と会わせようとしてくれてたのが啓介さんだったから、握手をしてから「会えなかった……」ってお互いに泣いてね。ホント残念だった。

【藤原】でも、最後に会えなかった分、俺たちは猪木さんが元気な時に深い付き合いができたからよかったよ。

──藤原さんは猪木さんが亡くなる前に、「お前は天才だ」って言ってもらえたんですよね?

【藤原】一緒に酒を飲んでる時に言ってもらえたけど、たぶんあれは同情で言ってくれたんだと思う。猪木さんが本当に一番の天才だと思っていたのは佐山だから。

【佐山】いや、藤原さんも天才ですよ。

【藤原】天才バカボン? 何かオチをつけようと思ってるんだろ?(笑)。

【佐山】いやいや(笑)。

【藤原】でも、理由はどうあれ、猪木さんに「お前は天才だ」なんて言ってもらえたっていうのは、それだけで幸せだよ。一生懸命頑張ってきたことを評価してもらえたのかな。

──猪木さんが亡くなられてから1年3カ月経ちましたが、今、猪木さんに対してどんな想いがありますか?

【藤原】「ありがとうございました!」それしかないよ。

【佐山】僕も同じだね。「ありがとうございました」。あと4、5年前に直接言えたけど、「あなたに会えて幸せでした」ということですね。

【藤原】猪木さんに会えてなかったらまったく違う人生を歩んでたな。もしかしたら、もっと幸せだったのかな?

【佐山】いや、お酒で失敗して捕まってると思う(笑)。

【藤原】おいおい、俺は犯罪者かい?(笑)。でも、今日は楽しいな。今度よ、一緒にトークショーやろうぜ。

【佐山】嫌ですよ。病気なのに。

【藤原】病気って言っても今日だってこんなにしゃべれたじゃねえか。

【佐山】これでやっとだよ。今日は調子がいいから。それにトークショーをやるのはいいけど、この人は酒飲んで何を言い出すかわからないから怖いよ(笑)。

【藤原】俺のことをそんなに褒めるなよ。プロレスラーっていうのは、怖がられるのが仕事だからな(笑)。

【佐山】そういう意味じゃないけど(笑)。

【藤原】でも、佐山が病気だって聞いて心配してたけど、今日会ったら元気でよかったよ。コイツは間違いなく天才で、本当にすごいヤツで、俺の永遠の友達だ。最後に言わせてくれよ。俺の人生、お前がいたから今がある。

【佐山】僕もその言葉を返します。僕は藤原喜明がいたおかげで強くなれたんだから。

【藤原】そうか! もう一回握手しよう。今日は本当にありがとう!
(ガッチリと握手して抱き合う)

■藤原喜明(ふじわら・よしあき) プロフィール
1949年、岩手県生まれ。72年に新日本プロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。84年に“テロリスト”としてブレイク。同年7月に第一次UWFに移籍し、スーパー・タイガー(佐山聡)や前田日明らとUWFスタイルのプロレスをつくり上げる。その後、新生UWFを経て、91年に藤原組を設立。藤原組解散後はフリーランスとして新日本を中心に多団体に参戦。2007年に胃がんの手術をして、今も現役レスラーとして活躍中。