住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になった映画やドラマの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「女優としてはまだ深夜ドラマに少し出始めたくらいのとき、映画『失楽園』(’97年)に出演するチャンスに恵まれました。’90年代後半からテレビドラマのお仕事をいただけたのも、『失楽園』との出合いがあったからだと思います」

こう語るのは、女優でタレントの原千晶さん(48)だ。幼いころからテレビが大好きで、生活の一部だった。

「’80年代は『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)が好きで、聖子ちゃん、明菜ちゃん、中山美穂さん、キョンキョン(小泉今日子)が新曲を披露するたびに振付や歌詞を覚えて、友達やいとこと歌っていました。その後、中学に進学するころにハマっていたのがおニャン子クラブ。国生さゆりさんの大ファンでした」

当時、埼玉県に住んでいた原さんにとって、東京の玄関口は池袋だった。

「池袋に行くことは一大イベント。前の日からドキドキして、何を着て行こうか悩んだり、楽しみで夜眠れなかったり(笑)。原宿にいたっては別世界。初めて竹下通りの人混みの中を歩いた高揚感は、今でも忘れられません」

そんな東京への憧れもあり、’90年に東京の女子高へ進学した。だがここで人生初の挫折を経験する。

「すごく背伸びしていたんだと思います。

たくさん友達を作らないといけないと、鼻息が荒すぎたみたいで……」

仲のよい友達もできたが、夏休み中に、うっかり友人の秘密をバラしてしまった。

「それで2学期に入ると、全員から無視。夢に描いていた高校生活とのギャップに耐えられず、学校に行けなくなってしまいました」

毎朝、家族が外出するのを見計らって部屋を出て、居間のテレビをつけた。

「唯一、外の世界とつながれるのがテレビ。ワイドショーで芸能ネタを見てから『キユーピー3分クッキング』(’62年~・日本テレビ系)、『笑っていいとも!』(’82~’14年・フジテレビ系)。それから昼ドラ、午後のワイドショー……。家族が帰ってくる夕方には再び自室にこもるような生活で、テレビだけが癒しでした」

出席日数の不足で留年が決定したことから退学を決意。翌年、別の高校へ入り直し、もう一度、高校1年生から始めた。

「あまり気負わないようにして学校に通っていると、自然と仲のいい友達ができたこともあり、少しずつ本来の自分を取り戻していきました。友達と男子校の文化祭に行って、カッコいい男のコを探したこともいい思い出」

東京ディズニーランドに遊びに行ったときには貴重な経験をした。

「南野陽子さんと本田美奈子さんがミッキーのカチューシャをつけて遊びに来ていたんです。目立たないような格好でしたが、やっぱり芸能人の着る私服はおしゃれだし、何よりオーラがあふれ出ています。

周囲は大騒ぎになり、私も遠くから写真を撮っていました。デビュー後、南野さんと仕事をご一緒させていただいたときに、その話をすると『えー、そうなんだ』って笑っていました」

■大物俳優との“リアル失楽園”報道に父から電話が

高校3年生くらいからは、音楽の趣味がヒップホップに傾倒。東京・芝浦にあるディスコ「GOLD」(’89~’95年)で、雑誌『Fine』(日之出出版)の編集者に声をかけられた。

「『今度、hitomiちゃんと撮影があるんだけど、来ませんか』と言われて、『行きます』って即答。新島での撮影に参加したものの、人前で水着になることも、写真を撮られることも恥ずかしくて、笑顔もうまくできませんでした」

だが、この経験から芸能界に興味を抱き、’95年度のクラリオンガールに選出。深夜の帯番組『ワンダフル』(’97~’02年・TBS系)のMCに抜擢された。

「そのころ、『失楽園』の映画が製作されることが話題になりました。不倫がテーマの小説が新聞に連載されていることは知っていましたが、当時はまだ20歳。不倫の末に2人が心中してしまうラストシーンに“なぜ?”と疑問を抱いていました。そんな映画に出演できるチャンスがめぐってきて、事務所からは『森田芳光監督だから頑張れ』と送り出されました。私は主演の役所(広司)さんが左遷された、窓際族が集まる部署にいる、地味でさえない女のコ役でした」

新人だったためにマネージャーがつくこともなく、ましてや楽屋なども割り当てられないため、現場ではいつもひとりぼっちだった。

「映画の待ち時間は長く、いつもポツンとしている私を見かねて、あがた森魚さんがよく声をかけてくれました。

すごく気さくに音楽の話をしてくれるんですが、ジェネレーションギャップもあってほとんど理解できませんでした(笑)」

手持ち無沙汰から、当時人気だった「たまごっち」を撮影現場に持ち込んだこともあった。

「私がうつむいて『たまごっち』をいじっていたら、小坂一也さんに『こら!』と怒られて。仕事現場でゲームをやっていたからだと思ったら『そんな暗いところでやっちゃ、ダメじゃないか。目が悪くなる』と、お父さんみたいな口調。それだけ子どもされていたんですね」

そんな新人にとって、役所も黒木瞳も、遠い存在だった。

「演技に入ると“本物の俳優はこれほど違うのか”と感じるほどのオーラに圧倒。当時の映画の撮影現場は、怖い裏方さんがいていい意味でピリピリ。だからこそ全員で一つの作品を作り上げている熱量を感じられ、女優をするにあたってすごく刺激を受けました」

作品の反響の大きさを改めて感じたのは、上映が終わったころ。

「父親から『お前、本当か! (新聞に)載ってるぞ』って電話があったんです。何かと思うと、夕刊紙に『役所広司が港区に住む原千晶の自宅に足しげく通っている』と報じられていてびっくり。役所さんとは現場でもほとんどお話ししなかったのに……。父はリアル失楽園だと慌てていました(笑)」

思わぬ“スキャンダル”に見舞われたものの、公私ともに思い出に残る作品となったのだ。

【PROFILE】

原千晶

’74年、北海道生まれ。父の転勤に伴い、福岡、埼玉などで育つ。’95年度の「クラリオンガール」に選出されたことをきっかけに芸能界デビューし、グラビア、バラエティ番組を中心に活躍した。30歳のときに子宮頸がんを宣告されて以来、がんの啓発活動や講演をさかんに行っている

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