00001:最初の囚人番号を受け取ったのは誰なのか?1850年代のカリフォルニア州刑務所事情
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 ゴールドラッシュに沸いたアメリカ、カリフォルニア州で最初の囚人として、囚人番号「00001」を受け取った人物は誰なのか?

 それは1850年代の報告書を見ればわかる。ここでは当時の報告書をもとに、当時のカリフォルニア州刑務所事情を見ていこう。

囚人番号「00001」は誰?

 ゴールドラッシュの混乱とともに生まれた刑務所制度の黎明期。その記録には、犯罪者たちの日常や逃亡劇、制度の課題が色濃く刻まれている。

 当時の報告書には、1851年から1854年にかけて登録された有罪判決を受けた受刑者たちの記録が記載されている。

 彼らの罪は窃盗から強盗、偽造、殺人未遂まで多岐にわたり、その大半は「労働者」とされている。

 カリフォルニア州で受刑者に公式な番号が付けられるようになったのは1851年のことだ。

 囚人番号「00001」を与えられたのは、22歳の家具職人チャールズ・カリアーだった。彼はカリフォルニア州サクラメント郡で馬を盗んだ罪で大規模窃盗罪に問われ、州最初の公式な受刑者となった。

 カリアーはまずサクラメント郡の監獄船「ラ・グレーンジ」号に収容された。この船はその後沈没するが、彼が移送された後のことだった。

 その後、別の監獄船「ワバン」号に移され、約40人の受刑者とともに船上での日々を送りながら、陸に降りて強制労働プログラムの一環としてサン・クエンティン州刑務所の建設に従事した。

 この2年間、カリアーが経験した過酷な船上生活については、「地獄のような環境だった」とも伝えられている。

 その後の彼の人生については記録が残されていないが、カリフォルニア州最初の受刑者「番号00001」として歴史に名を刻んでいる。

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囚人番号「0002」は宝石泥棒、2週間で脱獄

 2番目に登録された囚人番号「00002」は、1851年2月3日に収監されたブリューチャー・ハスケル。ニューヨーク生まれで、重窃盗の罪で3年の懲役判決を受けた宝石泥棒だった。

 前年に犯罪を疑われたが、無実を主張する告示を出している。そして、収監後、わずか2週間でまんまと脱獄した。

宝石やラバの窃盗罪で禁固刑を宣告されたブリューチャー・ハスケルとジョセフ・ボールドウィンのふたりが正午頃、甲板の上にいた。

同じ頃、上流にいた陸の友人に合図を送り、ボートを送らせた。そしてまんまと監獄船から逃げることができた。

船内には警備員がいたが、誰も気づかず、ふたりの行方もわからなかった

1851年2月18日 サクラメント・トランスクリプト(報告書)

 だがハスケルは再び捕まり、のちにワバン号に収監された最初の囚人のひとりとなった。

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サンフランシスコの窃盗団

 登録されている7番目と8番目は、25歳のフランシス・ブライアーとウィリアム・ワトキンスだ。このふたりは、サンフランシスコで暗躍する窃盗団の一員だった。

 ワトキンスはブライアーに友だちとして300ドルの時計を贈ったと言い、盗まれた大量の銅貨がブライアーの寝床から見つかったことは、ワトキンス自身が自分でそれを置いたと証言して盗品ではないと主張した。

 その他にフレドリック・シーモア、ウィリアム・ギャンブル、ジョージ・アダムスも関
与が疑われたが、結局、ブライアーは盗品受領の罪で懲役5年、ワトキンスは重窃盗罪で懲役10年の判決を受け、服役した。

 一味の首謀者とされていたジョージ・アダムスは囚人リストの27番目に載っていて。重窃盗罪で懲役20年を宣告されている。

 その後、フランシス・ブライアーは、1852年に逃亡したが1853年に再逮捕され、同年9月に恩赦を受けたという。

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ギャンブラーは全てを失う

 リスト12番目の名は英国出身のロバート・パーシー(22)。偽造の罪で懲役1年を言い渡され、1851年7月に収監された。

 パーシーは独立記念日を祝って泥酔した友人のポケットから現金と小切手をちょろまかし、ギャンブルで使い果たした。

ロバート・パーシーは昨日午後、第3管区警察により窃盗容疑で逮捕された。パーシーとピーター・カサーティは一緒に酒を飲み、パーシーは泥酔したカサーティのポケットから40ドルの現金と200ドル相当の小切手を盗んだ。パーシーはその小切手を換金したが、ギャンブルですべて失ったようだ

1851年7月8日、デイリー・アルタ・カリフォルニア紙

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脱獄が続発した初期の刑務所制度

 ジョセフ・ウィルソンは、コルサ郡で懲役15年の刑を宣告され、1851年12月に収監されたが、1852年6月15日には脱獄した。

 1850年代始めは州刑務所から大勢の囚人が脱獄していて、彼はそのひとりだった。

 C・W・バレンタインが、1854~1857年にかけてサンクエンティン刑務所から何度も脱獄し、刑務所長は逃亡期間を刑期に上乗せて延長したいと考えたが、当時はそうした法律の制定は通らなかった。

バレンタインは、マリン郡で4年間の懲役判決を受け、1853年8月に収監されたが、1854年7月に脱獄した

1855年6月に連れ戻され、4年の刑期終了直前の1857年8月に再び脱獄、1858年12月に再び連れ戻された。逃亡していた10ヶ月と24日間の刑期を延長するよう命じられたが、こうした措置の合法性は疑問視された

1859年7月23日 デイリー・アルタ・カリフォルニア紙

 刑務所から脱獄し、シャバで別の罪で有罪判決を受けて刑務所に連れ戻された囚人はたくさんいる。

 脱走期間を最初に言い渡された刑期に上乗せ延長できるのか? 最初の刑期の服役と2回目の刑期の服役とを統合できるのか?

  このように当時は囚人の脱獄も珍しくなかったため、カリフォルニア州の初期の刑務所制度は世間からも疑問視される仕組みだったようだよ。

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References: 00001: Who was the first U.S. prisoner to receive an inmate number? - Boing Boing[https://boingboing.net/2024/12/26/00001-who-was-the-first-u-s-prisoner-to-receive-an-inmate-number.html] / 1855 report describes state's first prison inmates - Inside CDCR[https://www.cdcr.ca.gov/insidecdcr/2019/08/29/unlocking-history-explore-stories-of-states-first-prison-inmates/]

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