最新号の「週刊文春」(文藝春秋)が長渕剛と冨永愛の熱愛をスクープし、話題を呼んでいる。
「文春」の報道によれば、取材班は連日のように長渕の自宅を訪れる冨永の姿をキャッチ。
この不倫報道以前から、長渕と冨永の師弟ぶりはメディアを賑わせてきた。冨永は昨年、過去の複雑な家庭環境や壮絶なイジメ体験を告白した『Ai 愛なんて大っ嫌い』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を発売したが、これも"過去と向き合え"という長渕からの助言があって執筆、長渕がプロデュースをして実現したもの。冨永の長渕への信頼はとても厚く、同書のなかでも、冨永は以下のように長渕へ感謝の言葉を綴っている。
「『お前、今のまんまじゃ、ダメだ!! きちんと自分を振り返り、考えなさい!』と、その人、長渕剛さんは強く言ってくださいました」
「音楽家であり、日本の若者のために、ずうっと真摯に歌をつくりつづけてきた長渕剛さんとそのご家族のみなさまには、どれだけ感謝しても、し足りません」
さらに、この自著伝をもとにした舞台でも長渕は演出を担当。逆に冨永も長渕のツアーに同行し、ケータリングの手配などの裏方仕事を引き受けたという。たしかに、ふたりの関係性を見てみると、不倫関係の艶っぽさというよりも、体育会的な熱血ムードのほうが強く感じられる。実際、長渕は弟子入り志願した冨永を故郷の鹿児島県に連れて行き、格闘技トレーニングを伝授したという話もあるほどだ。
だが、気になるのは、「文春」の取材で証言している、冨永の知人の言葉だ。
「冨永さんは長渕さんにベッタリで、どこへ行くにも一緒。
言われてみれば、その信奉ぶりは"長渕教"の信者に近い。かといって、だから不倫関係にはない、とは言えない。というよりも、長渕と関係をもつ女性は、長渕に対して信仰にも近い感情を抱き、洗脳状態のようになるのではないか......そのような指摘が、すでにずっと昔になされているからだ。しかも指摘した人物は、故・ナンシー関である。
ナンシーが長渕に言及しているのは、「噂の真相」1993年12月号に掲載された連載「顔面至上主義」でのこと。じつはこの記事、メインテーマは国生さゆりだった。ご存じの人も多いと思うが、国生は91年に放送された長渕主演のドラマ『しゃぼん玉』(フジテレビ系)で共演後、長渕との不倫が取り沙汰されるように。そんな最中に長渕は主演ドラマ『RUN』(TBS系/93年)で、国生を愛人役として抜擢。ナンシーの原稿は、このドラマにおける国生を批評したものだ。
まずナンシーは、この『RUN』というドラマを"長渕によるテレビ説法"であると評し、〈もう長渕のことはさておくとしても、気になるのは共演女優の国生さゆりである〉と本題を切り出す。そして、〈国生さゆりは長渕剛にカブれている〉と述べるのだ。
〈このカブれ方は、たとえば「森川由加里、竜雷太に熱烈ラブコール」とか「少年隊ヒガシ森光子のためなら火の中水の中」といったものとは違う。例がわかりにくい。なんかもっと思想的なかんじだ。思想と呼べるものがそこにあるかないかというのもあるが、「オルグ」という言葉がなじむような気もする〉
また、ナンシーは〈(国生は)無根拠にエキセントリックな金切声を上げてばかりいる。いや、今回の国生さゆりは金切声からもう一段上のテンションを表す「声」を出すのだ〉と、彼女の「声」の変化に着目し、原稿をこう締めくくる。
〈長渕は、国生さゆりを巫女に抜擢したのかも。ご神託を告げるために、国生は新しい声を産んだ。その声、他に使い道はないのに〉
オルグ、巫女......。ナンシーが国生に使ったこれらのものものしい言葉を冨永に当てはめてみても、違和感はない。長渕にハマった女性は、長渕の思想(ナンシーの言うとおり、それが何かはよくわからないが)に強く共感し、教えを請い、弟子化し、さらに絆を深めていく。もちろん、"師弟関係だから男女の仲ではない"という言い訳は、この場合、理由として通用しない。現に国生は95年に長渕が大麻所持で逮捕された際、会見で不倫関係にあったことを認め、志穂美も含めて協議を行い、関係を清算したと発表している。
まるで未来をも予言したかのようなこの批評、さすがナンシーと唸らずにいられないが、すっかり長渕色に染まってしまった冨永は、今後どうなっていくのだろうか......。
(大方 草)