◆西田敏行さんSPドラマ放送 ナレーションは遠藤憲一
2024年10月、この世を去った西田さん。俳優生活58年、おかしみあふれる三枚目の役から、狂気的な悪役、人情に満ちた役…どんなキャラクターも演じる唯一無二の俳優として活躍を続け、また、多くの人に慕われる人生であった。そんな西田さんの初主演ドラマといえば、日本テレビで1980年に放送された「池中玄太80キロ」。3人の娘をもつ女性と結婚したが、その妻が亡くなってしまった玄太が血のつながらない娘たちを引き取り、貧しいながらもともに生活し、父となり、親子の絆を作っていく物語。
このドラマのテーマ“どんな人でも家族になれる”これは、実は西田さん自身の人生に大きく重なるものであった。1947年生まれの西田さんは、母親に女手一つで懸命に育てられるが、生活は楽なものではなかった。すると、相談にのっていた母の姉が「あなたさえよければ、敏行ちゃんは私が育てる」。実は母の姉夫妻は、生まれてすぐの子どもを病で亡くしていたのだ。西田さんは5歳の時、実の母と別れて母の姉夫婦が住む地へ引っ越す。
そんな西田さんが、どうして俳優をめざしたのか。人にやさしく、周囲の多くの人から慕われる人になったのか。そこには、さまざまな人たちからもらった大きな愛があった。
さらに当日の両国・国技館生放送には、西田さんを慕う芸能人が集結。あの西田さんの往年の名曲「もしもピアノが弾けたなら」を、松崎しげると氷川きよしが歌い、西田さんに捧げる。
◆仲間由紀恵、生徒たちと書道パフォーマンス
2024年の震災以来、何度も能登を訪れ、朗読会やボランティアなどのチャリティー活動を行っている仲間由紀恵が、今回、「書道パフォーマンスを通して自分たちの抱える問題や能登の今について知ってほしい」と願う高校生に会い、想いを届ける。訪れたのは、東京・青梅市。実は震災直後、使われていなかった青梅のキャンパスを借りて、石川県輪島市の日本航空高等学校石川のおよそ600人の生徒が能登を離れて生活をすることとなった。現在ではおよそ300人が能登キャンパスに戻れず、今回訪れた書道部も能登に戻るめどはたっていない。
そんな書道部の生徒たちが青春をかけて取り組んでいるのが、大きな紙に音楽・踊りなどをあわせながら書いていく「書道パフォーマンス」。かつては地元の能登のイベントでもパフォーマンスを披露していたが、震災によってその機会はほぼなくなってしまったという。
◆星野真里、娘が難病「先天性ミオパチー」であることを公表
2024年9月、ふうかちゃんのインスタグラムを開設し、自身の娘が先天性ミオパチーであることを公表した俳優・星野真里。先天性ミオパチーとは、生まれつき筋肉の力が弱くなる、遺伝性の病気。ふうかちゃんの場合は、生後3ヶ月~4ヶ月になっても首が据わらず、2歳のときに先天性ミオパチーであると診断された。それからは、夫で元アナウンサーの高野貴裕さんと協力し、親としてできることを模索する毎日。福祉制度をくまなく調べ、社会福祉士の資格も取得した。今回の企画では、心配半分・子どもの成長にうれしさ半分で、ふうかちゃんたちの様子を水卜麻美アナウンサーと共にモニターで見守る。
4歳から乗り始めた電動車いす。今では巧みに操作し、自由自在に乗りこなしている。それでも日々の生活では、大人のサポートが必要で、なかなか子どもだけでお出かけする機会がなかった。
ふうかちゃんの大親友、えまちゃんとつむぎほちゃん。2人とふうかちゃんは、とあるけんかをきっかけに大親友となった。障がいの壁なんてみじんも感じさせず、等身大で接してくれる2人に、ふうかちゃんは大きな信頼を置いている。えまちゃんとつむぎほちゃんも、大好きなキャラクターや漫画の話で盛り上がれるふうかちゃんが大好き。一緒に過ごす時間が長いためか、親友2人は車いすの扱いも自然と学び、今では車いすの角度調整から、車いす専用の机の設置に至るまで、何でも習得している。
「この3人がいれば大体のことはできる!」そう豪語できるのも絶対の信頼があってのもの。今回は、そんな3人の絆を頼りに、母である星野も子どもたちだけのお出かけに賛成した。ふうかちゃんだけでなく、星野自身の挑戦でもある、このお出かけ。向かう先は、原宿・新大保・お台場。初めての挑戦、3人の絆で乗り切れるのか?(modelpress編集部)
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