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バーコードヘアが印象的な俳優の志賀廣太郎さん(66歳)といえば、NHKの朝ドラ「マッサン」の鴨居商店の番頭さん役や、カップヌードルCM「壁ドン篇」などでもお馴染みになった、今や売れっ子の名脇役です。
以下に、講談社「週刊現代」2月28日号に掲載された記事「脇役の流儀~これが私の生きる道」から、志賀さんの演技論・俳優論を抜粋したいと思います。
「同じ作品、同じシーンを作っているという意味においては、主役も脇役も変わらないと思っています。主役と脇役では、背負っているものが違いますが、カメラが回ったら、決して遠慮してはいけないんです。脇役が生き生きしてないと、主役まで死んでしまいますから。主役は持って生まれた才能や、周りの後押しがないと演じることはできない。つまり『選ばれるもの』です。でも、脇役になる道は自分で選ぶことができる。たとえセリフがなくても、出番が少なくても、見ている人を楽しませたり、感動させたりすることができるんです。結局のところ、皆やっぱり芝居が好きなんですよ」
志賀さんの人柄も滲み出る、寸分の隙もない「脇役の流儀」といえるでしょう。ワンポイントの「端役」から、刑事ドラマでは「ゲスト主演」と言われる「脇役」、主演の相手役となる「助演」など、脇を固めるといっても幅広く役割があり、ひとつの俳優論や演技論ではくくれません。映画やテレビドラマで脇役として活躍する俳優さんの多くは、劇団の舞台や小規模な映画では主演を務めています。
監督やプロデューサーが俳優と「演技論」ついて会話することはありますが、「俳優論」には立ち入れません。「演技論」は技術論ですから筆者たち作り手の側にも語る余地もありますが、「俳優論」は人生論だからです。
「俳優たるもの、かくあるべし」という、リスクの高い素敵な商売を生業としている者だけに許される、一度カメラが回れば年齢もキャリアもフラットな弱肉強食の世界で生きている俳優たちだけに許される、俳優人生そのものが「俳優論」だと思ういます。
しかし、「演技論」と「俳優論」は表裏一体の関係性なので、分けて語るのも難しいところもあります。
週刊現代の記事「脇役の流儀」では、志賀さんが「語らなかった本心」があると思いました。脇役で一生を終えてもいいと思う俳優はひとりもいないということ。主役に固執する濃淡はあっても、主役に「選ばれたもの」は受けて立つ構えは誰しもあるのが俳優です。
志賀さんが主役に「選ばれる」ことがあったとしても、あえて脇役の道を選ぶのでしょうか。
興行成績や視聴率という結果は、主役を選ぶ制作者が負うものです。一度、主役を経験すると見える世界が変わってくるので、その時に結果が出なくても、必ず再び「選ばれる」チャンスが回ってくるものです。キャリアが無駄になることはありません。「脇役の流儀」は主役を演じた時に生きてくるものだと思います。
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