2021年8月17日に亡くなった芥川賞作家・高橋三千綱さんの最後の日々を綴った長女・奈里さんの著書『父の最期を看取った日々』が8月2日、青志社から発刊されました。

介護にかかわっている方にも、そうでない方にも、とても興味深く読むことのできる1冊です。

在宅介護のリアルな内容がストレートな表現で綴られていて、終活カウンセラー協会の検定でも、テキストの副読本として使いたくなるほど素晴らしい内容に仕上がっています。

そこで奈里さんに、三千綱さんが最後の日々を過ごしたご自宅で、出版の経緯や現在の心境について、お話をうかがいました。

そこで見えてきたのは、ご本人の希望に最後まで沿うことのできた在宅での看取りが、ご遺族にも満足感と達成感を与えている現実でした。

芥川賞作家・高橋三千綱さんの終末ケアと看取り。長女が語った“...の画像はこちら >>

ホスピスには絶対に行かないと断言した父

私が高橋三千綱さんと最後にお会いしたのは2021年5月22日。三千綱さんにとって、最後のお仕事となった日刊ゲンダイの連載「ホントにゴルフは面白い!」のインタビューでした。

それから1年あまり。同じ部屋の同じ場所に座り、今度は長女である奈里さんのインタビューをしていることに、強いご縁を感じずにはいられませんでした。

三千綱さんと初めてお会いしたのは36年前。1986年、茨城の名門・大洗ゴルフ倶楽部で行われた三菱ギャラントーナメントのプレスセンターでした。

三千綱さんは、当時私がゴルフ担当記者として勤めていた東京スポーツでは伝説の存在。当時文化部の記者をしていた三千綱さんが文学賞の授賞式に会社から向かい、そのまま退職したという逸話は、編集局のスタッフなら、知らぬ人はいないほどのエピソードでした。

三千綱さんは大のゴルフ好きで、ゴルフ専門誌の連載も多く、トーナメント会場の取材も多かったのです。

その現場でご挨拶をしたのをきっかけに、酒席やゴルフコンペでお会いする機会が増えました。

後輩ということでかわいがっていただき、原作のまんが作品の中では「大東京スポーツの小川」という記者役でよくいじられました。

そんな高橋さんに約10年前にゴルフコンペの会場でお会いしたとき、肝硬変であることを告げられました。このとき、あと半年という余命宣告を受けていたようですが、劇的に回復。

ゴルフや酒席に何度も参加し、医師だけでなく、私も含め知人の誰もが、何度も起きる奇跡に驚かされ続けました。

しかし、そんな三千綱さんにも、ホスピスか、在宅かという選択を迫られる局面が訪れます。

当時、米カリフォルニア州ロサンゼルスで夫、娘とともに生活していた奈里さんは、帰国を決断します。病状が悪化している三千綱さんを一人介護することになった母・和子さんをサポートするためです。

コロナ禍で帰国便を取るのに1ヵ月を要した奈里さんが娘のじゅん子さんとともに帰国したのが2021年4月25日。東京に緊急事態宣言が出された初日でした。

再会した翌日に三千綱さんが吐血。救急搬送ののち、入院を余儀なくされ、X線検査で新型コロナに感染しているとの診断も受けます(検査では陰性)。

入院10日目、奈里さんと母・和子さんは病院の院長からホスピスに移ることを勧められます。

「がん、肝硬変、静脈瘤、食道狭窄などを併発しているため、在宅介護は到底無理」という病院長の判断からでした。

しかし、三千綱さんの希望は在宅でした。「ホスピスに入るのは絶対に嫌だ。お前らが医者の前で不安そうな顔をするから悪いんだ。在宅で大丈夫だと先生に言え!」三千綱さんはそう言い切ったのです。

この言葉を受け、奈里さんも「最後まで日本に残るから、ママを残してアメリカには帰らないから安心して。一緒に頑張ろう」と、母・和子さんに伝えています。

同時に、奈里さんはこう書いています。「しかし、このときの私たちは、これから始まる在宅介護の過酷さを、まだ分かっていなかったのです」。

芥川賞作家・高橋三千綱さんの終末ケアと看取り。長女が語った“現実”
長女が看取りまで一緒に暮らすことを決意

家族とともに在宅で生きることを決意

とはいえ、ここが介護した側が満足を得るのか、後悔を引きずるのかを分ける大きな分岐点だったと思います。

三千綱さんの望みが、在宅介護。このあと奈里さんと和子さんは、確かに大変な苦労をされるのですが、三千綱さんが亡くなった後、大きな達成感も得ることになります。

それは三千綱さんが介護する側に気兼ねなく本心を伝え、和子さんと奈里さんが、その望みに沿うことを決断したからにほかなりません。

それが結果的にこの在宅介護を成功に導く最大の要因になったのです。

この本の中には、驚きのエピソードが多数詰め込まれています。私が和子さんと奈里さんにも時折同席していただきながら、三千綱さんに2時間半ものインタビューを行ったのは、退院して約1ヵ月後とまさに在宅介護真っ只中のタイミングでした。

このとき三千綱さんは前日まで床に臥せっていた状態でありながら、当日は身支度を整え、驚くほど元気な表情で最後までお付き合いくださいました。

しかもこのとき、三千綱さんは「コロナのワクチンを打つんだ。それですごく元気になるかも」と笑顔で語ってくれました。

その言葉に偽りはなく、インタビューから2日後の5月24日にワクチンを接種し、翌朝にはスクワットまでする「奇跡の回復」を見せ、奈里さんを驚かせています。

亡くなる10年前から何度も余命宣告を受けながらゴルフコンペや酒席にも顔を出し、海外旅行に何度も言ったことなどは、私や周囲の人々に今も驚きをもって語り続けられている事実です。

しかし、医師までもがワクチン接種後の姿に度肝を抜かれ「もしかしたら、あと10年生きるかも」と語ったことが、介護する側には重い現実としてのしかかることにもなるのです。

奈里さんも、こう書いています。「『何年も母親の介護をしていた息子が母を殺した』。時折そんなニュースを耳にしていましたが、そのときの私は、何故、実の親を殺すの?いくら介護が辛いからと言って、殺してしまう人の気持ちが全く理解できない、そう思っていました。

しかし、実際に自分が似たような状況になり、その人たちの気持ちも分かる自分もいました。介護とは、正しい判断能力を奪ったり、人の心を殺してしまう程、恐ろしく困難なことだと同じ立場になり分かったのです」。

在宅での看取りで得られた心の財産

結果的に1回目のワクチン接種後における元気な状態が長く続くことはなく、6月になると脳症を発症。食道がんが大きくなって声が薄れてしまい、意思の疎通が難しくなります。

しかし、それでも三千綱さんは、1回目から1ヵ月後の6月24日に予約していた2回目のワクチン接種を強行するのです。

医師や看護師が難色を示していたにもかかわらず、当日かすれた声で「2回目のワクチンに期待している」と言い、車いすで接種会場のショッピングモールへと向かいました。

和子さんも接種を済ませると、「何か食べて帰ろう」と三千綱さんが提案。医師からは「食道はすでにほとんど閉じている状態なので、水分を摂るのも難しい」と言われていたのにもかかわらず、モール内のフードコートでラーメンを食べて帰るほど元気になるのです。

翌日も食事をするなど、4日間ほどすっかり元気になった状態が続いたといいます。

しかし7月21日、食道を広げる手術を願い出た三千綱さんに対する、主治医の返答は厳しいものでした。

「三千綱さん、もう医療の限界なんです」。このとき、それまで楽天家だった高橋さんの顔から血の気が引いたと、奈里さんは書いています。

それでも8月1日、「死ぬ前にどうしてもゴジラの映画が観たい」と言った三千綱さんは映画館で2時間強の映画を最後まで鑑賞。当時の心境を、奈里さんはこう振り返っています。

「本人だけでなく、私たち家族も父のうれしそうな表情を見ることができて、大変だけど在宅介護にして本当に良かったと心から思えました」

同月9日には床屋にも出かけ、亡くなる2日前まで自宅で食事を摂った三千綱さんは、2022年8月17日14時25分、眠るように亡くなったそうです。

奈里さんは、最終章でこう書いています。「主治医の先生や看護師さんのご協力を得て、父が最期まで望んでいた自宅で旅立たせることができました。そのおかげで父が亡くなったとき、悲しみよりも『やり切った』という思いの方が圧倒的に強かった私」

介護される側の気持ちをとことん理解できた妻と子だからこそ、得られた達成感に違いありません。
芥川賞作家・高橋三千綱さんの終末ケアと看取り。長女が語った“現実”
父が望んだ最期を迎えて得られた達成感

そして最後のポイントが、奈里さんがこの本を上梓したことです。大作家の最後の看取りというニュース性を帯びた、介護のリアルを伝える貴重な一冊として、世に出ることとなりました。

奈里さんは、本を書くことになった動機の一つとして「私の周りにも、親が70代になり介護に直面するケースが結構多い」ことを挙げ、こう続けました。

「私と同じように、子どもも結構小さくて、育児と介護が両方来てしまう。そうしたお悩みの、少しでも参考になればという思いもありました」。

幼少期、三千綱さんは奈里さんに読書を強く勧めたといいます。

そのチャレンジを、誰よりも大作家であった三千綱さんが、天国で喜んでくれているはずだということ。それもまた、奈里さんの心の財産になることでしょう。

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