両親や妻の介護をする男性介護者の数は全国に100万人以上ともいわれる。立命館大学産業社会学部教授の津止正敏氏は、2009年に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」(通称男性介護ネット)を立ち上げた。

そして今日に至るまで、事務局長として男性介護者が悩みを相談し合える場づくりに尽力してきた。どうすれば男性介護はより良いものになるのか、津止氏独自の哲学を伺った。

“一人じゃない”と思える場をつくりたかった

みんなの介護 まずは、津止先生が立ち上げられた「男性介護ネット」の活動から教えていただけますか?

津止 男性介護ネットは、2009年の3月8日に発足した全国組織です。たまたまでしたが、その日は国際女性デー。生まれながらにジェンダー課題を背負った団体になったことに慨深さを感じていました。「女性にパン(経済)とバラ(尊厳)を」という国際女性デーのスローガンを援用して「男性介護者にもパンとバラを」と発足集会の挨拶をしましたね。

私は、男性介護者が一人じゃないと思える交流の場をつくりたかった。

そして、そこから男性介護者が背負っている課題を社会に発信していこうと考えました。

男性介護者の会や集いを主宰する団体は今では私たちが知る限りでも、全国各地に150カ所を超えるほどに広がりました。しかし、ネットワーク発足当初には、男性介護者の交流の場は片手で数えるぐらいの情報しかありませんでした。「介護は女性がするもの」と思われていた時代にあって、男性介護者は介護の悩みを一人で抱えざるを得ない状況が生まれていたのです。

「買い物することすら辛かった」とある男性介護者は言いました。買い物かごを持って女性客に交じってレジに並んでいる自分のことを世間はどう見ているんだろうか。

可哀そうな親父だと同情されているんじゃないか。そう思うと一刻も早くこの場を去りたい気持ちになったというのです。

それに、妻の下着を買うために女性の下着売り場をウロウロすると「変なおやじが歩いていると言われやしないか」という思いになったという話も聞きます。店員に尋ねることさえ恥ずかしかったといいます。

男性介護者の会や集いでは、一人が悩みを話し出すと「実は俺もそうなんだ」とみんなが口々に語り始める状況が生まれていました。胸の奥底にしまい込んだ鬱屈した思いが仲間の力を借りながら引き出されていくのでしょう。

寡黙な男たちも失敗談を武勇伝に装いながら饒舌になっていく瞬間です。

―― 下着売り場が恥ずかしいという話は、私も別の男性介護者から聞いたことがあります。ある種の“あるある”なのかもしれません。

津止 そうですね。また、人の話を聞くことは他にも良いことがあります。介護している自分たちへのエールを耳にして、自分自身を肯定できるようになるのです。

自分たちも案外意味のあることやっているのかなと思い始めたという方もたくさんいます。

「経験知」から歴史を積み上げていく

―― 津止先生は「男性介護ネット」の活動に力を入れてこられたと同時に、大学では教授職に就く、研究者でもいらっしゃいますよね。

津止「鉄血宰相」といわれたビスマルクの言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉があります。

在宅介護の分野、とりわけ男性の介護は歴史にするほどのデータの積み上げがまだない分野だと思うんですね。

だからこそ一人ひとりの経験の持つ意味が大きい。「経験知」と言ってもいいかもしれませんが、そこからの学びや実践、研究を通して歴史にする作業を積み上げていきたい。経験することが私の研究そのものであり、その研究が歴史を積み上げていくことだと思っています。

だから、介護ネットの活動と大学での教育・研究を両立することに、あまり矛盾はなかったですね。

文献研究だけでなく、実践活動に関与しながらインタビューによって男性介護者の声に耳を傾ける。そして、エピソードをつないでいく。いわば臨床的研究というべき方法論が私のスタイルとなっていきました。それが研究の動機になっているかもしれません。

我々が経験を束ねて、やがて歴史となれば、きっとその歴史を学んでくれる賢者が続いてくれるはずです。

それまでの役割を私自身の課題としながら全国の仲間と一緒に歩んでいければいいなと思っています。

老人性うつ病を発症した母の介護と向き合った過去

―― 津止先生ご自身の介護についてもお伺いします。どのように向き合ってこられたのでしょうか?

津止 私は、介護というにははばかられるようなことしかできていません。故郷の鹿児島から大学進学のために京都に来ましたが、卒業後もそこに居を構えてしまいました。盆暮れに実家に帰るぐらいで故郷とはほとんど接点のない生活になっていました。

父は早く亡くなって母親一人で生活していたんです。私の下に二人の妹(母からすれば娘)がいるんですが、二人とも結婚して家を出ていました。寂しかったと思うのですが、京都まで電話がしょっちゅう来るようになった。70歳前後からだと思います。

母は、私の妹にも同じような感じで電話をかけ、家を行ったり来たりしていました。実の子どもの家といっても思うようにはいかないのか、2・3日で自宅との往復。でも寂しいからまたもう一人妹のところへ行く。これもすぐに帰っていく。

母は、精神安定剤が欠かせなくなっていきました。そしてある日、トイレ行く途中に布団にけつまずいて大腿骨を骨折すると、そのまま寝たきりの生活になってしまいました。

それからは、私も病院見舞いをかねて頻繁に京都と鹿児島を往復するようになりました。航空便の介護帰省割引を利用し始めたのもこの頃です。介護実務のためというより、おもに母の介護を担っていた妹家族へのねぎらいをしたかったのです。今思うと、気遣いケアラー(心身に不調のある家族への気遣いのみしている人)のような感じでせっせと足を運んでいましたね。

「老いても病んでも母は母」ということにも気付かされ、切ない思いもしました。休暇を利用して数日間滞在する私に「あんた、仕事は大丈夫か?辞めさせられたんか。風邪はひいとらんね。食事はとったんか」と言うんです。妹たちにもそう尋ねたらしいです。そろそろ50歳の大台に乗ろうかという時期でもありましたが、自身が不自由な体になってもなお息子のことは心配事だったのでしょうね。

男性介護者の集いの実践や研究に関わり始めた時期は、この時期と重なっていました。介護する男性の問題が他人事ではなく、むしろ私自身の問題であったからこそ、一生懸命になれたのかもしれません。母のことで言えば、もっとやれることがあったはずなのに、そのうち…と先送りしてしまったことで母の最期をみとることもできずに自身の介護問題は終わりました。93歳でした。

私の経験は要介護の親を持つ多くの男性たちがたどってきた道かもしれません。

津止正敏「男性介護者は全国に100万人以上、彼らの悩みをすくいあげる場をつくりたかった」
男性介護者を苦しめる“男らしさ”の呪縛を解きたかった

戦略的に使い始めた“ケアメン”という言葉

―― 津止先生は“ケアメン”という言葉を発案されましたが、どんな思いを込められたのですか?

津止 「介護する男性」を社会のモデルに、支援の対象にしてほしいという思いから戦略的にこの言葉を使っていました。「男性だけが特別扱いされるのはなぜか」とか「介護を軽く扱ってほしくない」「そんなきれいごとではないんだ」等々、眉をひそめる人たちの顔を思い浮かべながら恐る恐る。

そこには、男性介護者が自縄自縛に陥っている“男らしさ”のイメージを変えたいという思いもありました。

“男らしさ”というと「力を誇示する」「感情を隠す」「暴力に走る」と、いわば有害な強さがイメージされます。目標達成などランキング漬けの競争主義になったり、あるいは喧嘩や不良行為など逸脱に走ったり等々。

男性たちの介護談義にも似たような雰囲気が漂うときがあります。「俺流介護」がいかに優れているかを競い合う。それを披露したいがあまり、徐々に話し合いがヒートアップ。険悪な雰囲気になって場がシラケてくるんです。でも、それに気づいたメンバーの誰かがそのうち修正を始める。「俺はこうしている。あんたに合うかどうかはわからないがね」。こうオチをつけて締めるのです。

―― “男らしさ”が、介護をする上ではむしろ敵だった、ということでしょうか。

津止 私が”古い男らしさ”と対局にある世界観として例に挙げるものに、SMAPが唄った「世界に一つだけの花」があります。

「なのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる?/一人一人違うのに/その中で一番になりたがる/そうさ僕らは世界に一つだけの花/一人一人違う種をもつ/その花を咲かせることにだけ/一生懸命になればいい」 (「世界にひとつだけの花」作詞:槇原敬之 唄:SMAP)

介護者の会や集いでの談義は、この歌のように「私はこうやっている」だけで十分なのです。

そして、ケアという行為の中で育つやさしさ・包容力・忍耐強さ。さらには、仕事だけではなくマルチタスクをこなせる。炊事・掃除・洗濯などの生活スキルも意味ある“男らしさ”として主張してもいいのではないかと思います。

男性介護者の中には、あえて介護の道を選んだ人もたくさんいます。また、苦労の中にも介護の楽しさや意義を語っている人もいる。その人たちが持つ人間的魅力をイメージする言葉で表現したかった。「ケアする男ってイケてるよね」という感じで、介護を明るく、ポジティブに捉えてほしいという思いがありました。

当初の不安とは裏腹に、ケアメンという言葉は、いろいろなところで使っていただけるようになりました。

「介護は大変だけど喜びがある」という男性介護者の声も

―― 「介護に負担を感じつつも、同時に喜びも感じている」という人も多くいるそうですね。

津止正敏「男性介護者は全国に100万人以上、彼らの悩みをすくいあげる場をつくりたかった」
介護感情の両価性
出典:津止 正敏,斎藤 真緒 共著『男性介護者白書―家族介護者支援への提言』P62より引用 かもがわ出版(2007/08/01)

津止 私たちは、そのことを「介護感情の両価性」と捉え、介護することの肯定的理解へのアカデミックタームとして強調してきました。これまで、男性介護ネットの活動を通して、男性介護者の課題や苦労話を聞いてきました。皆さん「介護はつらくて大変だ。それは言うまでもない。だけど、そればかりではない。健康なときに気づかなかったような発見もある」と異口同音に言います。

夜寝るときに電灯を消そうとすると、寝たきりになっている認知症の妻がニコッと笑ってくれる。それを見ると同居の息子と喧嘩が絶えない、その日のイライラが全部チャラになって、さあ明日も頑張ろうという思いになる。

上手でもない自分の料理を妻がおいしそうに食べている。それを見るだけで気持ちが安らぐという方もいます。そんなお話が、数え上げたらきりがないぐらいあります。

―― 介護によって新しい関係性が開かれるのですね。

津止 今まで「おい」「こら」「お前」とか呼んでいたのが、介護をするようになってから下の名前で呼ぶようになった方もいます。妻との関係性を新しくつくっていくためには、若い頃の呼び名がいいのかなと思って名前を呼ぶようにしたといいます。

―― 避けて通れなくなった以上、介護といかに向き合うかがこれからの社会の課題というわけですね。

津止 先ほどの男性介護者たちのエピソードが物語っています。介護は決してつらくて大変なことばかりではない。健康な時に気づかなかった新しい関係のつくり方の発見もあると。介護との出会いがもっと「深い人生」の扉を開いてくれるのではないかということです。

最近、「ケアラー」や「ケアラー支援」という言葉が社会現象になって広がっています。埼玉県が全国に先駆けて2020年3月に制定・施行した「ケアラー支援条例」が発端になっているのですが、そこでは「全てのケアラーが個人として尊重され、健康で文化的な生活を営むことができる」ことを理念に謳っています。

介護が始まっても自分自身の人生をも全うすることができる。介護を排除することではなく介護とともにある「深い人生」の扉を開いてみたいと思うのは私だけではないと思います。

撮影:岩波純一