なぜ日本経済は停滞し、賃金が上がらない状況が続いてきたのか。新刊『日本病 なぜ給料と物価は安いままなのか』を上梓した、第一生命経済研究所首席エコノミスト・永濱利廣氏に聞く。

介護業界でも、低賃金が長く指摘されてきたが、むしろ介護職が賃上げの先駆けになる可能性があるという。

日本のように長期間デフレを放置した国はない

みんなの介護 日本経済停滞の要因は「リーマンショック後の判断を誤ったこと」と分析されていますよね。

永濱 日本はバブル崩壊後、20年間デフレを放置してしまった。そんな国は歴史を遡ってもどこにもありません。

リーマンショックによって欧米の住宅バブルが崩壊しました。しかし両者には決定的な違いがある。欧米はバブル崩壊後、デフレにならなかったのです。

なぜならなかったか。日本のバブル崩壊を反面教師にして欧米の経済学者たちは策を練っていた。

アメリカのプリンストン大学にベン・バーナンキという学者がいます。リーマンショックのとき、FRBの議長だった彼の政策が力を発揮しました。

財政政策と金融政策の連携に取り組んだ。政府と中央銀行が連携して刷ったお金を、政府がバンバン使うようにしたんです。

そして、結果的にデフレを免れることができました。

―― 反対に日本はどうなったのでしょうか。

永濱 日本はバブル崩壊で痛い思いをしたのに、リーマンショックでも手を打たず、中央銀行がお札を刷らなかった。その結果、1ドル70円台の超円高が進みました。

その影響は、地方経済の衰退につながってしまいました。ものづくり大国の日本が国内でいくら良いものをつくっても輸出したら高くなってしまう。そのせいで生産拠点が地方から海外へ出ていってしまいました。

いわゆる、「4低」の状況が起こっています(低所得・低物価・低金利・低成長)。私はこの状態を「日本病」と呼んでいます。他国からは「ジャパニフィケーション」(日本化)とささやかれています。

経済が停滞している状態が、日本では当たり前になっていて感覚が麻痺していますが、これは海外から見たら異常です。他国は経済が成長し、物価も上昇しています。

日本の実質賃金は韓国よりも低くなってしまった

―― 具体的なデータがあれば教えていただけないでしょうか。

永濱 低物価については、ビッグマック指数に示されています。低賃金については、OECDが出している購買力平価ベースの実質賃金などにあらわれています。これを見ると、日本とイタリアだけが、賃金が上がっていない。

さらに衝撃的なデータがあります。2010年代半ばぐらいにお隣の韓国に賃金が抜かれているのです。日本人の感覚からすると、日本の方が経済が成長していて、賃金も高そうなイメージなのに。実際、今は韓国よりも1割ぐらい低くなっています。

―― 著書に「病み上がりの身体で筋トレを始めるようなことをしなければ、日本病が治る可能性がある」という表現がありましたが、日本経済は病に侵されていて不健康な状態ということですね。

永濱 世界標準で経済が”健康”とされる基準があります。供給能力よりも需要が超過して、物価が毎年平均2%ずつ上がっていく。人間の身体で例えれば、病気になりにくいとされるBMI22.0になる体重のようなものです。

この基準から見て日本はどうか。

バブル崩壊以降、消費によって入ってくるお金が借金返済に回ってしまっていて、需要が足りない状況が長く続いているのです。今のアメリカが肥満だとすれば、日本はバブル崩壊後、ずっと栄養失調でした。

お金の量を増やす金融政策や、政府が自分でお金を使って経済を回す財政政策を打ちました。それによって少し栄養失調が解消されました。

しかし、その金額が少ないし、政策の実現も遅れた。結局大きな変化には至っていません。その後、増税や金融引き締めなど“ハードな筋トレ”をしてしまった。それによって、また病気を悪化させてしまったのです。

永濱利廣「介護職の賃上げが、日本全体の賃上げをリードする可能性がある」
専門性を生かすイノベーターたちは、日本の賃金を底上げする可能性を持っている。

賃金に対する考え方は日本=コスト、海外=投資

―― 低賃金の問題についてはどう分析しますか?

永濱 日本企業は儲けから人件費に回す割合が低く、お給料の分配が後回しになります。経営者が人材流出に対する危機感を、あまり強く持っていないからです。その結果賃金が上がらない状況が続いています。

また、日本はメンバーシップ型雇用で新卒一括採用をして、社員にいろいろな仕事を与える。そしてゼネラリストを育てる。

どこの会社に入るかが重要になってしまいます。

それに対して欧米はジョブ型雇用が多い。ジョブ型雇用は、仕事にマッチする人を登用します。なので、働く側はどんな職種に就くかが重要になる。転職しながらスキルを磨くと、どんどん給料が上がっていく世界です。

このようなジョブ型雇用の場合、ある程度給料を上げるなどして労働者に報いていかないと、すぐ辞められてしまう。だから全体的に賃金が上がっていくのです。海外での人件費の捉え方は投資的な意味合いが強いです。

主要先進国の平均失業率と平均賃金上昇率のグラフをプロットすると、平均失業率が高い国の方が賃金上昇率が高くなっています。日本は平均失業率が低い一方、賃金の上昇率も低い。

欧米はある程度失業のリスクは享受しながら、より高い賃金を求める。一方で日本は賃金がどんどん上がっていくことよりも、雇用の安定を重視する。

背景には、国民性もあるかもしれませんが、デフレが放置されていることが大きいでしょう。

経済がものすごく成長していれば、短期的に失業しても、もっと賃金が高いところに転職しようという思いにもなります。

―― 私たち働き手はどのような意識を持てば良いでしょうか?

永濱 日本の場合、自分の専門性を生かしながら転職も経験してイノベーションを起こす人が増えることが大切ですね。

どんどん給料が上がって出世する優秀な人が同業の中にはたくさんいます。しかし、そこで満足するから個人としても日本の経済としても成長が止まってしまうのだと思います。そのような人こそ、もっとジョブ型雇用で働けるようになったらいいですよね。

公的な職業の賃金が上がると一国の賃金が上がる

―― 介護職に関しては岸田政権になってから賃上げが打ち出されています。

永濱 これは直接介護職の給料を上げる方向ではないですが、他職種の待遇改善にもつながる、とても意義がある取り組みなのではないかと思っています。

アメリカの著名な経済学者・オリヴィエ・ブランシャールは、公的な職に就く人の賃金を上げれば、一国の労働者全体の賃金増につながる可能性があるという説を唱えています。待遇が悪い労働者たちの転職の誘因になり、経営者側はそれを引き留めるために賃金を上げようと考える。

この「公的な職」を広く捉えると介護職も含まれるのではないでしょうか。

―― 介護職の賃金が上がることは日本人の賃金アップにつながる可能性があるということですね。

撮影:花井智子

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