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「37.5歳の人生スナップ」とは……

2020年9月に公開された中村倫也主演の映画『人数の町』。単純な作業と引き換えに衣食住が保証され、不特定多数とのセックスに耽る生活を送ることもできる奇妙な「町」を描いたこの作品は、封切り直後からSNSなどで映画好きの話題をさらった。

東京・武蔵野館での上映期間は、当初予定されていた5週間から延長を重ね、計9週間に。国内では2020年度「新藤兼人賞」の最終選考作品に選ばれたほか、海外ではモスクワ国際映画祭、バンクーバー国際映画祭という2つの国際映画祭に招待。

さらにこの春には、シカゴで開かれたアジアンポップアップシネマ映画祭のオープニング作品に選ばれ、韓国・ソウルでおこなわれた日本映画祭でも上映された。

50歳の新人映画監督・荒木伸二が話題作『人数の町』を撮るまで
『人数の町』©2020「人数の町」製作委員会

監督・脚本は、CMプランナー・クリエイティブディレクターとして、長らく広告業界で活躍してきた荒木伸二さん。これまでのキャリアと関係ありそうで、実はそんなに関係のない、50歳での映画監督デビューだった。


幼少期に体得した「人と違うことをする」

荒木さんの“映画好き”の原点は、幼少時代。

『キューティーハニー』『聖闘士星矢』などで知られるアニメーターの荒木伸吾氏の長男として生まれ、当時、一般家庭ではまだ珍しかったビデオデッキが自宅にあった。

「ビデオソフトが潤沢な時代でもなかったので、テレビで放映された好きな映画を録画して、それをひたすら見ていました。よく覚えているのはディズニーの『ダンボ』と『不思議の国のアリス』。木曜ロードショーで放映されたのを録画して、妹と一緒に50回とか100回、きっともっと見ましたね」。

あまりにも繰り返し見たため、吹き替えの音声や歌はおろか、カット割りやつなぎもすべて覚えてしまったという。

50歳の新人映画監督・荒木伸二が話題作『人数の町』を撮るまで
写真提供:荒木伸二

そんなふうにして映像に親しんで育った荒木さんだが、当時は第二次ベビーブームの真っ只中。ものすごい数の子供たちのなかでは「人と違うことをしなくちゃ潰される」ことを幼心に察知すると、それが嗜好にも影響を及ぼすようなる。

「ひらたく言えば天邪鬼なんですが、でもなんかありましたね、時代の空気感。人が多いぞと。だから、たとえばアイドルなら松田聖子より中森明菜。みんなが応援する聖子なんか絶対に応援しない(笑)」。

荒木さんが小学生の頃、1970年代後半から’80年にかけて大ヒットした映画のひとつに『スター・ウォーズ』がある。けれど、同じSF映画でも荒木さんが好んだのは、スピルバーグの『未知との遭遇』のほうだった。

「もちろんスター・ウォーズも好きでしたけど、『未知との遭遇』はポテトサラダのシーンをはじめとして一連の不気味さがたまりませんでした」。

50歳の新人映画監督・荒木伸二が話題作『人数の町』を撮るまで

もうひとつ、荒木さんが当時見た映画で忘れられないのは『カプリコン・1』。アメリカ政府による有人火星探査宇宙船計画をめぐる“やらせ”を描くSF映画だ。

「宇宙船が火星へ向かって打ち上げられる直前、船内の生命維持システムに決定的な不具合が見つかり、3人の乗組員は宇宙船から降ろされるんです。政府は有人飛行に見せかけた無人飛行を決行し、火星の捏造画像などを使った“やらせ”で国民をだましますが、宇宙船が地球に帰る途中で大破してしまう。

その結果、政府の“やらせ”に付き合って地球にいた乗組員たちが“存在してはいけない人間”になり、政府に殺されそうになる。

政府による壮大なうそを描いた先駆け的な映画で。いわゆる名作の部類ではないですが、深いところで少なからず影響を受けていると思います」。


映画漬けの生活を卒業し、CMプランナーに

中学・高校生になると8ミリやビデオを回して友人と映像作品をつくるようになったが「映画監督」を職業として捉えることにはピンとこなかった。当時は映画学校もまだ少なく、映画監督になる方法がいまいちわからなかったからだという。加えて言えば、お勉強ができたからだ(本人はそうは言わないけれど)。

「大学って、建築学部なら建築、文学部なら文学と、多くは入学した時点で進路がある程度決まるじゃないですか。無理だな、と思いました。まだ17才なんで決められません、と。当時の自分はいろいろなことに興味があったというか、何も定まってなかったし。で、東京大学なら入学後に学部を選べると聞き、受けようと。数学が得意な高校生だったので、数学の力で東大へ入りました」。

入学後は興味のあった建築学科の授業を受けたが、手先が不器用で製図がうまくできずにあっさり断念。そこで、ずっと好きだった映画を勉強しようと、映画評論家の蓮實重彦氏の授業を受けるべく文転した。

にもかかわらず、授業をさぼって映画館に通うばかりの学生生活。3年生になると、フランスの超難関かつ名門の国立映画学校「FEMIS(フェミス)」を目指すようになり、休学して渡仏してしまう。

「フランスでは受験勉強をしながら、やっぱり映画館に通って映画を見て。1年半パリに住んで、フランス語は話せるようになったけれど、受験には失敗して日本に帰ってきちゃいました。せっかくフランスにいたんだからほかの映画学校に行けば良かったのかもしれないけど、そのときはどうしてもフェミスに行きたかったので」。

50歳の新人映画監督・荒木伸二が話題作『人数の町』を撮るまで
パリで暮らしていた頃の荒木さん。写真提供:荒木伸二

日本の大学に復学すると、周囲の学生は就職活動をしていた。荒木さんも就職先を探しはじめるが、当時、映画会社の新卒採用はほとんどなく、テレビ局はエントリーの受付が終わったあとだった。そんななか、なんらかのかたちで映画に関われるかもと目をつけたのが広告業界だった。

「当時、広告業界にはバブルの残り香があって、CMをつくるのに市川準さんや相米慎二さんといった映画監督を起用し、35ミリフィルムを回す、みたいに贅沢なことをしていました。それを知って、おもしろそうだな、と」。

無事に広告代理店に入社した荒木さんは、CMプランナーとしての道を歩みはじめた。ただし、CMプランナーの役割は、企業から依頼されたCMを企画し、制作者に発注すること。

企画はするが、映像をつくる人を“選ぶ立場”であって、“つくる側”にはなれない。その事実に入社早々気付いたが、仕事は楽しかった。

「今思えば激務だったけど、景気が良いからずーっとお祭り騒ぎみたいな感じで。映画をつくりたいという気持ちは変わらずあったけど、仕事で手一杯でした」。

そんな生活と心境に変化が訪れたのは、30代後半になった頃。父親が亡くなり、東日本大震災が起こったことがきっかけだった。

「人って本当に死ぬんだ、俺もそのうち死ぬんだな、と思って。ちょうど同じ時期に別の広告会社に転職し、結婚したこともあって、平日の夜や週末に時間ができるようになったんですね。やり残したことがあるならそろそろやんなきゃと、自分を急き立てるようになりました」。


45歳を過ぎて脚本がコンクールで受賞しはじめる

荒木さんがやりたいことは、もちろん映画だった。自分で映画をつくる。そのために脚本を書く。

脚本の指南本を買って独学してみたが、なんだかピンとこない。そこで、思い切って表参道にあるシナリオスクールに入学し、仕事の合間に通うようになった。2012年、40歳を過ぎていた。

「シナリオスクールでは、映像作品特有の脚本の書き方を教えてもらいました。大学で小難しくは勉強してたけど、実践的な授業は初めてで。初心者クラスで基本的なことを学んだら、次は5人~10人のクラスに入って、ひたすら脚本を書くんですね。それを週に一度の授業でみんなの前で朗読して、感想を言い合う。

最初はめちゃくちゃ恥ずかしかったんですが、やっているうちにだんだん気持ちよくなって、ハマりまして(笑)。毎週のようにネタを考えて脚本を書き、人前で読んで、というのをやってました。『この遊び、永遠につづけられる』と思ったけど、僕は年食ってるし、だらだらやっていても仕方がない。そう考えて休校届を出し、脚本コンクールに注力することにしました」。

それからはひたすら脚本を書き、NHKや民放テレビ、映画祭の脚本コンクールに応募した。

だいたい2カ月に1本、多いときで月に1本のペース。最初の2年はまるで選考に引っかからなかったけれど、ある年、TBSの脚本コンクールの一次選考に残った。

そのあたりを境に、おもしろいように結果が出るようになった。2016年にテレビ朝日新人シナリオ大賞の優秀賞を受賞し、翌年にはMBSラジオ大賞の優秀賞を受賞。

そして、2017年におこなわれた第1回木下グループ新人監督賞で、応募作品241編のなかから準グランプリに選出される。このときの受賞作が、のちに映画化される『人数の町』だった。

50歳の新人映画監督・荒木伸二が話題作『人数の町』を撮るまで

「木下グループ新人監督賞は、キノフィルムズによる新人監督を発掘するためのコンクールなので、受賞作は応募者がキノフィルムズのサポートを受けて監督し、商業映画として劇場公開されることが前提になっていました。映画制作費の上限は5000万円です」。

荒木さんにとってはこれ以上ない条件の受賞だったが、受賞作がすぐ映画化されるわけではなかった。準グランプリを受賞後、ひとまず『人数の町』はキノフィルムズによって“開発”されることとなった。

「“開発”というのは、簡単に言うとプロデューサーたちと一緒に脚本に肉づけをしていく作業です。一度集まると3時間くらいかけて、フリートークに近い感じでアイデアを出し合う。もう、どんどんアイデアが出てくる。投げていただいたものを脚本に採用するかしないかは作家である僕次第なので、自由でおもしろい意見を忘れないようにメモを取るだけでも必死で。

そうすると、1人では絶対に生まれない発想が出てくるし、逆に、他人になにを言われようが、自分はぜったいに譲りたくないポイントも見えてくる。すごく有意義な時間でした。この“開発”が1年弱──8カ月ほどつづいたのかな。脚本は18稿になりました。

キノフィルムズさんとの共同作業を楽しむ一方で、あまりにも話がウマすぎると感じる自分もいて。なんだかんだで『人数の町』も映画にはならないのでは? という疑念が常にありました」。

 

そんななか、荒木さんが主演俳優として名前を挙げていた中村倫也が『人数の町』出演を快諾したことで、事態は急展開を迎える。

ほかの出演者やスタッフも次々に決まり、映画化が正式に決定。2018年5月に撮影がスタートすることが確定した。

>後編へ続く

荒木伸二(あらき・しんじ)●1970年、東京生まれ。東京大学教養学部表象文化論科卒業後、広告代理店に入社。CMプランナーとして松本人志が出演する「バイトするならタウンワーク」のCMやミュージックビデオなどの企画制作をする。本業の傍ら、2012年よりシナリオを本格的に学び、第1回木下グループ新人監督賞の準グランプリに選出された脚本『人数の町』が映画化。2020年9月、監督デビュー作として全国公開された。

「37.5歳の人生スナップ」とは……
もうすぐ人生の折り返し地点、自分なりに踠いて生き抜いてきた。しかし、このままでいいのかと立ち止まりたくなることもある。この連載は、ユニークなライフスタイルを選んだ、男たちを描くルポルタージュ。鬱屈した思いを抱えているなら、彼らの生活・考えを覗いてみてほしい。生き方のヒントが見つかるはずだ。上に戻る

赤澤昂宥=写真 岸良ゆか=取材・文

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