プロスノーボーダーであり、スノーボードメーカー「ゲンテンスティック」のシェイパーでもある玉井太朗。

作り手のマインドを持った滑り手は、どんな視点で道具を捉えているのか。

そして身の回りに置いたモノから、何を感じ取っているのだろうか。

 


滑ることも作ることも「感性を形にする」点で同じ

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東京から北海道のニセコに移住して30年になる。

あの日、完璧な地形と斜度を備えたコースにはフレークの大きな雪が降り積もっていた。けれどそこには誰のトラック(滑走後の溝)もなく、一日中滑っても、そのパウダーを滑り切ることはできなかった。

玉井太朗はパラダイスを見つけたという手応えとともに、ここに移り住んだのである。

独自の魅力を持つスノーボードメーカー「ゲンテンスティック」ができるまで
立てかけられたスノーボードは玉井が乗る「TT165 Final Edition」。20年にわたってそのシェイプを煮詰め続けてきたモデルだ。初代モデルから使い続けてきた金型が寿命を迎え、このバージョンが最後となった。それゆえ「ファイナルエディション」と名付けられたのだ。左下のブーツはアメリカのスキー&スノーボードブランド「K2」がリリースする玉井太朗モデル「TARO TAMAI SNOWSURFER」。上級者向きのブーツは固いもの、という常識を覆した柔軟な履き心地は、これまでにない自由な滑りを引き寄せる。

単に雪を滑ればいい、ということではない。

目を凝らせば斜面の中に、滑るべきラインは無数に見えてくる。

その中からベストを嗅ぎとり、コンディションを狙いすましてイメージ通りのラインを描く。これこそ、玉井の求めるスノーボーディングだ。

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あまりにデザインがエレガントなので飾っている、ドロミテのスキーブーツ。実はお母さまが銀座のスキー用品店でオーダーしたもの。隣に並ぶのは歴代のK2玉井太朗モデル。

20代前半から始まったプロスノーボーダーとしての活動において、アラスカ、北米、南米、中央アジアなどさまざまな山にトラックを刻んできた。

どんな場所でも、斜面に対する向き合い方は同じ。自分が納得できるベストなラインを描きたい、という思いだ。

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これまで多くの国で、さまざまな山を滑ってきた。そんな旅に関わった車のミニチュアたち。どの車にも深い思い入れがあり、一台ずつに実車を再現するペイントや、細かな改造を施しているという。

かつて玉井は、スノーボードはダンスに似ていると言った。それは自分の感性を身体で表現する、という意味においてだ。そして玉井にとってスノーボードをシェイプするという行為も、感性を形にするという意味では滑ることと同じである。

なにしろ性分なのだから仕方がない。玉井は初めてスノーボードを履いたその日から、これを作ることにも興味を持ってしまった。

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滑り始めた頃から、道具としてのスノーボード作りをイメージしていたという。もの作りに対する求道的な姿勢は揺るがない。

「生まれついての性格で、舞台を見ていても照明や小道具といった裏側が気になるタイプ。

滑っていても、これはいったいどうなっているんだ、こうすればもっと良くなるんじゃないか、っていつも思っていた」。

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小学校5年生の夏休みの学習ノートには、「山中湖からの帰りに湘南の海でサーフィンをしている人を見た」という記述がある。そして、自分も「スチロールでサーフィンを作って、やりたいと思った」と結ばれている。創造はこの頃から始まっていたのだ。

そうした思いが募り、1998年に自身のスノーボードブランド「ゲンテンスティック」を創立。純粋な想像力の表現として、スノーボードの製造を始めることになったのだ。

玉井太朗●1962年生まれ、東京都出身。北海道ニセコ在住。幼少の頃よりスキーに親しみ、サーフィンを経験。

やがてスノーボードに巡り合い、競技者を経て’98年に「ゲンテンスティック」を創業。 www.gentemstick.com

 

二木亜矢子=写真 林 拓郎=文 加瀬友重=編集